ラープ鉄道及びオーストリア=ハンガリー国家鉄道、両国の国有化
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制限されたドナウ河水運を補完する目的でシナス男爵(Georgios Sinas, 1783-1856)とシェネラー(Mathias von Schönerer, 1807-1881)はウィーンと1921年まで国境線のあったブルック・アン・デア・ライタの連結路線と現在のプレスブルク線の建設を計画した。1836年シナスはオーストリア帝国政府に鉄道建設予備作業の許可を申し込んだ。1838年1月2日建設許可は与えられたが、排他的な特権ではなかった。同年3月20日シナスは、株式会社の資金を集めるために、委員会を組織した。1838年6月に会社設立は許可され、同年9月シナスに最大株主の権限が譲り渡された。1839年5月6日帝国ウィーン - ラープ(現在ジェール)鉄道の定款は「帝国統合裁判所事務局(k.k. vereinigte Hofkanzlei)」により承認された。 ウィーン - ブルック・アン・デア・ライタ区間の工事は1840年開始の時点からゆっくり進行された。その原因は現在の東部鉄道マルヒェク線の計画であり、その路線のウィーン - ラープ鉄道の競争路線となる恐れであった。1842年シナスは、東部鉄道の15 km区間が既に建設されたけれども、国家により鉄道建設を行うことを申し込んだ。しかし帝国政府は国家予算で鉄道建設を続くことを断った。そのかわり政府はシナスにハンガリー方面の鉄道敷設権を取り消して、その株式会社に南部鉄道建設を割り当てた。この路線の社名はウィーン - グログニツ鉄道会社に変更された。1844年2月シナスは新たにウィーン - ブルック・アン・デア・ライタ区間とウィーナー・シュタット - かツェルドルフ区間の建設許可を取った。1845年建設作業は再開され、1846年9月12日ウィーン - ブルック・アン・デア・ライタ区間が開通した。1853年にウィーン - グロックニッツ区間、モェドリング - ラークセンブルク区間、ウィーナー・ノイシュタット - カッツェルスドルフ区間は南部帝国鉄道(k.k. südliche Staatsbahn)に引き受けられたので、社名はウィーン - ラープ鉄道会社に戻った。 1855年ラープ鉄道は「オーストリア=ハンガリー国家鉄道会社(Privilegierte Österreichisch-ungarische Staatseisenbahn-Gesellschaft, StEG)」に買収されたが、この会社は名と違って私鉄であった。その後この路線の経由列車はジェール - ブダペスト区間の通じてブダペストまで到達する。別会社と合併された「国家鉄道会社」はウィーン - ブレスブルク間(現在のブラチスラヴァ)と、ウィーンからミステルバッハ、ラー・アン・デア・タヤ経由でブルノまで行くラー線及びフルショヴァニ - ブルノ線を運営した。 1886年末の頃、ハンガリー国鉄は約4200 kmの鉄道路線の国有化の関係で、ブダペスト - ブルック・アン・デア・ライター国境区間を引き受けた。 一方、オーストリアの区間は1909年に国有化された。 ウィーン東駅を使用していたが、第二次世界大戦による戦災から再建されるまでウィーン南駅を使用していた。
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