西山会議派として
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1924年(民国13年)1月、広州で開催された中国国民党第1回全国代表大会に参加し、党中央執行委員会常務委員兼青年部長に選出・任命された。しかし鄒魯は、孫文が推進する三大政策・国共合作に反対し、国民党右派としての立場を鮮明にしている。1925年(民国14年)3月の孫文逝去後、鄒は更に反共の活動を進めた。8月に左派の廖仲愷が暗殺されると、胡漢民、鄒ら右派幹部は関与を疑われた。そのため、鄒ら右派幹部は上海へ逃げ込み、さらに北京に移った。 11月23日、鄒魯らは独自の国民党第1期4中全会を開催し、中国共産党員の国民党からの除籍・追放、顧問ボロディンの追放等を決議した。この会議は、孫文の棺が安置されていた西山碧雲寺で開催されたため、鄒魯らの一派は「西山会議派」と称される。広州の国民党中央は、1923年(民国15年)1月に、第2回代表大会を開催し、鄒ら西山会議派に党籍剥奪処分を下している。 しかし、蔣介石が3月に中山艦事件を起こしてからは、西山会議派の国民党への再合流の機運が高まった。1927年(民国16年)8月、南京(蔣介石)・武漢(汪兆銘)・上海(西山会議派)が合流し、さらに9月には国民党特別委員会が設立された。鄒魯も特別委員会委員となったが、11月に3派間の矛盾が大きかったために解体された。鄒魯は失意のうちに一時出国し、1928年(民国17年)に上海へ戻って『中国国民党史稿』の執筆を開始した。
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