西山会議派への参加
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1925年(民国14年)3月に孫文が死去すると、覃振は反共右派の姿勢をさらに鮮明にし、11月23日に西山碧雲寺で開催された反共右派独自の1期4中全会に参加した。これにより覃は西山会議派と目されることになる。翌年1月、主流派による広州での国民党第2回全国代表大会で覃は警告処分を受けたが、3月に西山会議派が上海で開いた独自の第2回全国代表大会にも参加した。 その後、1927年(民国16年)に上海クーデター(四・一二政変)を起こした蔣介石が南京で国民政府を樹立したため、西山会議派はこれに合流することになる。同年9月、南京(蔣介石)・上海(西山会議派)・武漢(汪兆銘(汪精衛))の3派が合流し、中央特別委員会が南京で開催され、覃振も特別委員会宣伝部委員に選出された。 ところが、合流後も国民党内では権力闘争が続き、同年12月の2期4中全会では、覃振を含む西山会議派幹部の多くが停職処分を受けてしまう。そのため、覃は北平に逃れた。1930年(民国19年)、覃は反蔣各派の同盟成立に奔走し、8月7日、反蔣派による北平拡大会議の開催にこぎつけた。しかし中原大戦の敗北もあって反蔣派は瓦解、覃も下野して故郷に引きこもっている。
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