福建事変と日中戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/02/19 19:30 UTC 版)
帰国後の范漢傑は、元上官である蒋光鼐らが率いる第19路軍で参謀処長に任ぜられ、1932年(民国21年)1月の第一次上海事変を戦う。その後、第19路軍の福建移駐に伴い同省に移ったが、翌1933年(民国22年)11月、蒋光鼐らは中華共和国を建国して反蒋介石の蜂起を決行する(福建事変)。范も第19路軍を改編した人民革命軍第1方面軍で副参謀長兼参謀処処長に任ぜられたが、内心は蒋光鼐らへの追随を望まず、密かに蒋介石に中華共和国の内情を報告するなどした。そのためまもなく福建事変が鎮圧されても、范は改めて蒋介石らに起用され、軍事委員会委員長南昌行営中将高等参謀に任ぜられている。 1934年(民国23年)春、范漢傑は蒋介石の命で国内各省の国防体制視察に回る。その後、廬山軍官訓練団に所属し、1935年(民国24年)1月には第2師参謀長に属した。翌年9月、胡宗南が第1軍軍長に就任すると、胡の推薦により范が副軍長に起用され、西北部での紅軍(中国共産党)掃討に従事した。1937年(民国26年)8月、胡と共に上海の前線に赴いて第二次上海事変を戦い、後に河南に撤退・駐屯する。1938年(民国27年)4月、范は国民政府軍事委員会政治部第1庁庁長へ、さらに5月には中央軍事学校教育処処長へと転じた。同年秋、第27軍軍長に任命され、河南省や山西省で日本軍を迎撃している。この頃は、第二次国共合作が締結されていたこともあって、范の部隊と八路軍は良好な連携を見せていたとされる。 1941年(民国30年)夏、范漢傑は中条山戦役(晋南会戦)で日本軍を迎撃し、衛立煌率いる主力部隊と協力して日本軍の南進を食い止めている。1942年(民国31年)1月、范は軍功により第34集団軍副総司令に昇進し、陝西省の三原県に駐屯した。同年6月には第38集団軍総司令に昇進し、1945年(民国34年)初めには第1戦区副司令長官兼参謀長に就任している。3月には陸軍中将銜を授与され、5月には中国国民党第6期中央監察委員に選出された。
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