福建の掌握
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/02 08:24 UTC 版)
当時、泉州では刺史の廖彦若が暴政を行っていた。泉州の有力者の張延魯らは王潮の軍規が厳正であることを知り、泉州の父老を率いて王潮を迎え、泉州の州将とならんことを請うた。そこで王潮は8月に泉州を囲み、1年の包囲ののちに泉州を攻略し、廖彦若を殺して泉州に拠った(光啓2年(886年)8月)。それより以前に建寧の人陳巌が福州に拠って福建観察使に任じられていた。王潮は陳巌に遣使して臣従を誓い、泉州刺史に任じられた。 大順2年(891年)、陳巌は重病となり、王潮を呼びだして軍政を委託した後に死去した。陳巌の妻の弟である范暉が将士に工作して自分を福建留後に推薦させたが、陳巌の腹心の将たちの多くは王潮について范暉の打倒を進言した。そこで王潮は従弟の王彦復・弟の王審知に命じ福州を攻撃した。范暉は縁戚関係を結んでいた浙東の威勝軍節度使董昌に援軍を求めたが、王彦復らが急攻したため、援軍到着を待たずして景福2年(893年)5月に城を捨てて逃走し、福州は王潮のものとなった。王潮は福州に入城して福建留後を称し、陳巌を葬って遺族を厚く遇した。 程なく福建各地の軍閥が続々と王潮に臣従し、同年9月に王潮は唐朝から正式に福建観察使に任じられた。翌乾寧元年(894年)には黄連洞蕃(少数民族)が汀州を囲むが、王潮は部将の李承勲を派遣してこれを破り、福建全土を平定した。乾寧3年(896年)9月には威武軍節度使に封じられ、検校尚書左僕射を拝した。王潮は学校を設立し、流民を郷里に呼び戻し、租税を定め、官吏に州県を巡回させて農業を振興し、近隣諸勢力と友好関係を結んだ。これによって福建の治安は安定し、民は平和を得た。 乾寧4年の冬に病となり、12月6日(898年1月2日)に薨去した。唐朝より司空が追贈され、弟の王審知がその地位を継承した。
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