北条高時政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/16 18:30 UTC 版)
金沢文庫の史料や鎌倉時代末期の政治動向を調査した永井晋によれば、北条高時は政治を顧みなかったのではなく、病弱のために中々政治の場に出られず、側近たちは改革よりも安定性を重視して高時の補佐に力点を置いたため、ゆるやかに政権が衰退していったというのが真相ではないかという。永井は高時政権が崩壊した理由として、以下の4つを挙げている。 13世紀末から、地球の気候は中世温暖期から小氷期へと変動しており、朝廷への優越性を確立した後の室町幕府や江戸幕府とは違い、鎌倉幕府はこの寒冷化に対処する政治権限を持たなかった。軍事担当の権門としては、可能な政策には限りがあり、その中で対策することしか出来なかった。 前述した両統迭立という天皇家の内部矛盾に否が応でも巻き込まれてしまった。 貨幣経済の浸透により、御家人制が破綻しつつあり、御家人制をその根幹とする鎌倉幕府も崩壊しつつあった。無論、この問題については前2つと違い、鎌倉幕府自身が対処すべき問題であった。また、当時、悪党と呼ばれる新興勢力が現れ、寺社の強訴が相次いでいたが、これに対する問題も後手後手だった。 前項とも関連するが、幕府中枢部が改革に消極的だった。霜月騒動(弘安8年(1285年))・平禅門の乱(正応6年(1293年))・嘉元の乱(嘉元3年(1305年))など相次ぐ内紛で疲弊した幕府は、この教訓から、連署金沢貞顕を中心にして調整型の能吏によって構成されるようになった。高時が病弱だったこともあって、協調路線が基本指針とされた。高時政権は、漸進主義・安定志向の官僚集団としては優秀だった。 永井は、「この首脳部が鎌倉幕府の実力が充実した中期に政権運営を行っていれば、高時は平和なよい時代を築いた政治家と評価されたであろう」「しかし、社会が求めていたのは新しい社会構造への移行であった。この意識のズレが、蹉跌の大きな原因となる」と述べている。
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