日本とカンナム
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/30 18:31 UTC 版)
「カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ」の記事における「日本とカンナム」の解説
1960年代末、日本国内のスポーツカーレースではトヨタと日産の開発競争が過熱していた。両陣営はスポーツカー世界選手権進出を視野に入れていたが、エンジンの大排気量化にともない二座席レーシングカー規定のカンナムシリーズ参戦計画が浮上する。 1968年と1969年にはNAC(日本オートクラブ)主催により、富士スピードウェイで非選手権の「ワールドチャレンジカップ・富士200マイル」(通称:日本Can-Am)が開催された。本場カンナムシリーズのマシン・ドライバーが来日し、サーキットを通常とは逆の反時計周りで走行した。1968年はマクラーレンM6Bに乗るピーター・レブソンが優勝。日本勢はトヨタ7(3.0リットル)の福沢幸雄の4位(7周遅れ)が最高位だったが、翌1969年のレースではトヨタ7(5.0リットル)に乗る川合稔が優勝した。 トヨタは1970年の日本グランプリ中止後もカンナムシリーズ挑戦を目指してトヨタ7ターボを開発した。富士1000キロメートルでデモ走行を行い参戦発表寸前となったが、同年8月に川合がテスト中事故死したため計画は幻に終わった。このマシンは長年非公開とされたが、近年ふたたびイベントなどで一般公開されている。また、ライバルの日産もR383を開発したが、同様に参戦をとりやめたといわれる。 日本人ドライバーでは鮒子田寛がスポット参戦。風戸裕は1971年に本格参戦し、年間ランキング10位の成績を収めた。
※この「日本とカンナム」の解説は、「カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ」の解説の一部です。
「日本とカンナム」を含む「カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ」の記事については、「カナディアン-アメリカン・チャレンジカップ」の概要を参照ください。
- 日本とカンナムのページへのリンク