1930年代から第二次世界大戦
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/03 09:07 UTC 版)
「フレンチコネクション」の記事における「1930年代から第二次世界大戦」の解説
20世紀初頭以降コルシカ人の船乗りたちはサイゴン―マルセイユ間を運航して半精製されたヘロインを地道に送っていた。1937年マルセイユ近くで最初の違法ラボが発見された。このラボは、当時のマルセイユのゴッドファーザーであるコルシカ島出身のポール・カーボン(フランス語版)によって設立され、東洋アヘンを輸入し、ヘロインに加工し、アメリカに輸出していた(インドシナではフランスのアヘン公社を通じて販売され、フランスの委任統治領であったレバノン、シリア、トルコでは製薬会社のラボにケシの実を販売することが合法で農家は栽培を許されていたが、過剰生産分が違法に輸出されていた。)。フランソワ・スピリット含むコルシカ・マフィア(ミリュー・コルス(フランス語版)、ユニオンコルス(英語版))はヘロインの国際取引のアメリカ市場への侵入を練り上げていた。他方、アメリカンマフィアのボス、ラッキー・ルチアーノは、米ユダヤ人のイーディッシュコネクション(別名 コーサ・ノストラ/Jewish mob)と中国の犯罪組織「三合会」による独占を排除し、利益の少ない酒の密売から麻薬販売に方向転換を考えた。これらのネットワークをフレンチコネクションと呼んだ。 第二次世界大戦中、ヴィシー政権下のインドシナ政権はインドシナのアヘン貿易の予算に重きを置き続け、1940年には7.5トン、1944年には60トン以上を生産した。地中海のハブであったマルセイユはヨーロッパに入ってくる非合法的な製品、特にヘロインの入り口となった。 戦後1947年2月5日、3㎏のヘロインがコルシカ人水兵から押収された。実のところ、フランス・マフィア(milieu)が徐々にアヘンの国際取引に不可欠の存在となっていることが明らかになる。1947年3月17日には13kgのヘロインがサントロペの汽船から押収される。1949年1月7日には23kg以上のヘロインとアヘンがフランスの船Batistaから押収された。
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