1930年代から50年代:始動から政府による禁止まで
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「中国におけるボディビル」の記事における「1930年代から50年代:始動から政府による禁止まで」の解説
ボディビルが中国で初めて実施されるようになったのは1930年代である。「中国のチャールズ・アトラス(英語版)」と称された趙竹光が、中国にボディビルを持ち込んだ人間としてその名が残っている。上海のミッション・スクールの学生だった趙竹光は、後にアメリカに渡って、健康増進と体の鍛錬のためにボディビルのセミナーや研究会に通うようになった。彼はそこで得た最新の知識を同級生と分かち合うとともに、一緒になって滬江大学でこの競技を広める活動を始めた。趙竹光は1934年に「筋肉育成法」(肌肉发达法)という本も書いている。 北京在住の林仲英が趙竹光と知り合ったのは1940年代である。林仲英もまたボディビルのとりこになり、地元にあったキリスト教青年会の建物の中にジムまで開設した。しかし中国ではどこにジムを構えようと、ボディビルに夢中になるのは裕福な若い男性だけで、それ以外の人にとっては経済的理由からも健康上の理由からもこの競技をおこなう余裕などなかった。それにも関わらず、農夫や肉体労働者といった文字通り中国社会の貧しい階層の人からの反応は悪くなかった。1953年、一貫してボディビルを「ブルジョア的」で「西欧の資本主義国家にはじまる、非生産的でナルシスティックな美の追求」を行う競技であると非難していた中国当局から、林仲英は査問を受けることになる。政府がボディビルにこのような硬直的な態度をみせたことについては、ボディビルがオリンピックの種目ではなかったため、国家として支援する動機に乏しかったことも理由のひとつに挙げられる。同じ年に毛沢東率いる中国共産党は中国におけるボディビルを禁止した。
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