1930年代と1940年代
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「サッカーアルゼンチン代表の歴史」の記事における「1930年代と1940年代」の解説
1930年、国際サッカー連盟 (FIFA) は第1回FIFAワールドカップを組織し、ウルグアイが開催国となった。各大陸での予選大会は行なわれず、アルゼンチンを含む13ヶ国の出場国はFIFAによって招待された。グループリーグ初戦のフランス戦には1-0、2戦目のメキシコ戦には6-3、3戦目のチリ戦には3-1、準決勝ではアメリカに6-1で勝利して決勝に進出した。決勝では同じスコアで準決勝を勝ち上がったウルグアイとの対戦となったが、2-4で敗れて準優勝に終わった。在アルゼンチンのウルグアイ領事館は数千人の群衆に襲撃され、それに対して警官隊が発砲するなどの騒動が発生し、一時的に国交断絶するほど両国関係が緊迫した。8得点を挙げたギジェルモ・スタービレが初代得点王となり、中心選手にはキーパーのボッシオとフアン・ボタッソ、ディフェンダーのアティリオ・デマリア、ラモン・ムッティス、エバリスト、スメルス、ミッドフィールダーのモンティ、フォワードのペリネッティ、カルロス・ペウセジェ、スタービレ、フランシスコ・バラージョなどがいた。第1回大会で好成績を収めたにもかかわらず、ファシスト党のベニート・ムッソリーニが大会を大衆操作に利用した1934年の第2回大会では初戦でスウェーデンに2-3で敗れた。また、FIFAワールドカップが南米とヨーロッパで交互に開催されると言う約束を無視したとして、1938年にフランスで開催された第3回大会の出場もボイコットした。第3回大会前には南米諸国が強硬な抗議を行なっており、キューバとブラジルが1試合もすることなく本大会出場権を獲得している。第二次世界大戦の影響で、1942年、1946年にFIFAワールドカップが開催されることはなく、第4回大会は1950年まで持ち越された。
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1930年代と1940年代
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「CAバンフィエルド」の記事における「1930年代と1940年代」の解説
1931年、アルゼンチンの主要クラブが主導してリーグのプロ化が行なわれた。バンフィエルドはプリメーラ・ディビシオン(1部)への参加を依頼されたが、経営陣はプロリーグが短期間で失敗に終わると予想し、新たに発足したプロリーグではなくアマチュアリーグへの参加を続けた。しかし、バンフィエルドの選手たちはプリメーラ・ディビシオンの他クラブからのオファーを受け、次々とクラブを離れていった。戦力をそがれたバンフィエルドは1934年までアマチュアリーグに参加したが、1935年、バンフィエルドはアルゼンチンサッカー協会 (AFA) に加盟し、セグンダ・ディビシオン(1933年に再び名称変更、2部)に登録してプロ化の流れに加わった。しかし無残な成績で1試合平均の観客数は300人に満たず、1938年シーズンには最下位でのセグンダ・ディビシオン降格となった。1938年末には危機的状況にあったが、若手事業家のフロレンシオ・ソラが会長職を引き継ぐと、セグンダ・ディビシオンに所属していたCEポルテーニョがリーグを脱退したこともあり、3部リーグ降格は避けられた。1939年シーズンに向けて、プリメーラ・ディビシオンのクラブでレギュラー外となっていた選手を中心に、レンタル移籍で多くの選手を獲得した。1940年シーズンはそれまでとは完全に別のチームとなり、ラファエル・サンス、エドゥアルド・シルベーラ、ジョン・バプティスト・ブスーソ、アルフレード・デ・テラン、アルマンド・ファーロなどの選手で構成された。エル・パンペーロ紙はバンフィエルドにエル・タラドロ(ドリル)というニックネームを付け、これはクラブの公式なニックネームとなった。1940年にホームスタジアムが建設され、やがてエスタディオ・フロレンシオ・ソラと名付けられた。CAインデペンディエンテとの間で落成記念試合が行なわれたが、アルセニオ・エリコに決勝点を決められて0-1で敗れた。 1941年シーズンには贈賄行為を企てたとして勝ち点16の減点処分を受けたが、最終節にCAロサリオ・セントラルを破って降格を回避した。1942年シーズンと1943年シーズン後には下部組織で問題が発生し、1944年にセグンダ・ディビシオン降格となった。1945年にはジョセフ・アグーリャが会長に就任して良い成績を残したが、組織上の危機に見舞われ、フロレンシオの兄弟のレミヒオ・ソラが会長に就任した。1946年シーズンは着実に勝利を積み重ね、リーグ記録の勝ち点を挙げてセグンダ・ディビシオンで優勝した。1948年にはフロレンシオが再び会長に就任し、チーム強化のために多くの選手が加入したが、セグンダ・ディビシオン降格すれすれのシーズンを送った。シーズン最後の5試合では全クラブでプロ契約の選手たちが試合不出場のストライキを宣言し、それぞれのクラブはユース契約の選手をピッチに並べた。このストライキ騒動の際にはレナート・セサリーニが監督を務め、獲得可能な勝ち点10のうち9を奪ってプリメーラ・ディビシオン残留を果たした。
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