1939年シーズン
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/03/29 19:38 UTC 版)
「ナイル・キニック」の記事における「1939年シーズン」の解説
詳細は「en:1939 Iowa Hawkeyes football team」を参照 1939年シーズン開幕前、彼はこう書いている。「3年間、いや15年間フットボールの最終年度のための準備をしてきた。アンダーソンヘッドコーチに本物のフットボール選手がどんなものか見せて見たい。」 アンダーソンコーチはすぐにキニックのことを気に入った。他の選手に対しては姓で呼んだがキニックに対しては「ナイル」といつも呼んだ。 アンダーソンコーチは1939年のシーズン、先発選手が十分な時間役割を果たすことができればチーム成績が向上することを予感していた。開幕戦前、地元紙であるDes Moines Registerは「鉄人たちがアイオワのフットボールを変えるかもしれない」といった記事を載せた。1939年のチームは "Ironmen"(鉄人)と呼ばれ大学史上最高のチームとなった。そして多くの選手たちが全試合に出場した。 1939年アイオワ大学はシーズン成績を6勝1敗1分としてAPランキング9位で終えた。キニックはわずか31回のパスで638ヤードを獲得し、11のタッチダウンを決めた。そしてランでも374ヤードを獲得した。またキックオフリターンでは全米トップの337ヤードを稼ぎインターセプトも8回行った。チームのタッチダウン19のうち、彼があげたタッチダウンは16(パスで11、ランで5)、130得点のうち107得点にからんだ。また420分中402分に出場した。(最終戦のノースウェスタン大学戦終盤肩を痛めて退場した。)大学記録を14塗り替え、そのうち65年たった時点でも6個の記録が破られていない。 このシーズンのノートルダム戦では7-6で勝利したが彼のタッチダウン及びドロップキックによるエクストラポイントがチームがあげた全得点であり、16回のパントを蹴り平均45.7ヤード(最長63ヤード)の記録を残し番狂わせを演じた。 シーズン終了後、彼は多くの賞を受賞した。カレッジフットボールのオールアメリカンファーストチームに選ばれ、AP通信による最優秀アスリートの投票ではジョー・ディマジオ、バイロン・ネルソン、ジョー・ルイスを破り満場一致で選出された。ビッグ10のMVP、ウォルター・キャンプ賞、マクスウェル賞などを受賞した。1939年11月28日にはフットボールで最も名誉ある賞、ハイズマン賞を受賞した。1939年に彼が受賞したハイズマントロフィーはアイオワ大学の殿堂に飾られている。 ウィキソースにハイズマン賞受賞時のスピーチの原文があります。
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