レース戦歴とは? わかりやすく解説

レース戦歴

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メルツァリオ・A1」の記事における「レース戦歴」の解説

A1/1のレギュラードライバーはアルトゥーロ・メルツァリオであった。A1/1は1978年シーズン開幕戦アルゼンチングランプリデビューした。メルツァリオは予選20位で通過し決勝ではディディエ・ピローニティレル・008押さえて走行したが、9周目にディファレンシャル損傷してリタイアした南アフリカで再び予選26位で通過したが、決勝39周目にサスペンショントラブルでリタイア、続くロングビーチサーティースルパート・キーガンシャドウハンス=ヨアヒム・スタックの前の予選21となったが、キーガンスタックプラクティスアクシデント決勝には参加しなかった。メルツァリオは決勝では17周目にギアボックストラブルでリタイアとなった技術的な欠陥序盤失敗の原因であったシーズン中盤のヨーロッパラウンドではスペインフランスドイツ予選落ちモナコベルギーでは予備予選落ちとなり、決勝進出したのはスウェーデンイギリスのみであったスウェーデンでは8周遅れでフィニッシュしたが、非完走扱いとなったイギリスでは油圧低下のため32周目にリタイアとなった1978年の夏には、A1/1BはA1/2に置き換えられた。A1/1Bはイタリアグランプリで再び使用された。メルツァリオはチームのセカンドドライバーとしてアルベルト・コロンボ起用、A1/1Bをドライブしたコロンボモンツァではすでに予選で最も遅いドライバーであったその後、A1/1Bは使用されなくなった。しかし、そのシャシー1979年春に新しく設計されメルツァリオ・A3基礎となった

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ヒル・GH1」の記事における「レース戦歴」の解説

GH1は第3戦の南アフリカグランプリまで登場しなかった。デビュー戦ロルフ・シュトメレンは7位で完走したスペイングランプリではグラハム・ヒルに代わってフランソワ・ミゴールセカンドカーステアリング握った。このレースでシュトメレンは17周目にトップに立つが、26周目にリアウィング脱落してバリアー激突した皮肉なことにウィング脱落メカニック手を入れた直後のことであったマシン跳ね返ってコース戻り反対側のバリアー飛び越えて5人の観客死亡した。シュトメレン自身も足と手首骨折肋骨ヒビ入ったミゴールその時点で10位を走行していたが、トップからは11周遅れであったため、非完走扱いとなった。 この事故の結果、続くモナコグランプリでは決勝グリッド18台に縮小された。この変更グラハム・ヒル予選通過へのチャンス影響与えたモナコ5回の勝者プラクティス問題抱え、0.377秒差で予選落ちとなった。第6戦ベルギーではヒルに代わってトニー・ブライズステアリング握り、シュトメレンに代わってミゴール出場したデビュー戦となったブライズは4列目からのスタートとなったが、決勝ではシケインスピンし、18周目にピストントラブルリタイアとなったミゴール58周目にサスペンショントラブルでリタイアした。 第7戦スウェーデンではヴァーン・シュパンセカンドカーステアリング握った決勝でブライズはマーク・ダナヒューロニー・ピーターソンを躱し、ランキングリーダーのエマーソン・フィッティパルディ挑んだが、ギアボックス4速詰まり、ダナヒューに抜き返された。しかしブライズは自身3度目グランプリで6位に入賞ポイント獲得した。これはエンバシー・ヒルにとっても初のコンストラクターズポイントとなった。ブライズのポイントはF1キャリアにおける唯一のポイントとなった。シュパンは48周目にトランスミッショントラブルリタイアとなった第8戦オランダからアラン・ジョーンズセカンドカードライブした。このレースではブライズが7位、ジョーンズ13となったフランスではブライズは7位、ジョーンズ16となったイギリスグランプリに先だってグラハム・ヒル17シーズンに及ぶ現役生活からの引退発表し、エンバシー・ヒル・チームの運営集中することとなったレース終盤豪雨見舞われ最後まで走っていたマシンは6台のみであったRAC56周でレース成立したとして、ジョーンズ10位、ブライズは15となった第11戦ドイツエンバシー・ヒルベストとなったジョーンズは5位に入賞したが、ブライズはアクシデントリタイアした。続くオーストリアでシュトメレンが復帰し短縮されたこのレースでシュトメレンは16位、ブライズは15となったイタリアでブライズは予選6位となり、3列目からのスタートとなったしかしながらブライズ、シュトメレンの両者ともアクシデントリタイアしている。最終戦アメリカではブライズのみのエントリーとなったが、5周目アクシデントリタイアした

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アイフェラント・E21」の記事における「レース戦歴」の解説

E21のデビュー1972年シーズン第2戦の南アフリカグランプリであった予選でシュトメレンは25番手となり、これはポールシッタージャッキー・スチュワートから3.7秒遅れであった決勝では2周遅れの13位で完走となった · 。 チーム続いてブランズ・ハッチ行われたノンタイトル戦のレース・オブ・チャンピオンズ参戦した。シュトメレンはフォーミュラ5000マシンドライブするアラン・ロビンソン(英語版)に次ぐ11となったマシン性能改善されシーズン第3戦のスペイングランプリではポールシッタージャッキー・イクスから2.7秒遅れの予選17番手となる。決勝では15周目にアクシデントのためリタイアとなった · · 。 モナコではポールシッターエマーソン・フィッティパルディから8秒遅れ、24番手のホセ・カルロス・パーチェから3秒遅れの予選最下位となる。決勝優勝したジャン=ピエール・ベルトワーズから3周遅れの10位で完走した · 。 ベルギーではポールシッターフィッティパルディから2秒遅れの予選20番手となり、決勝では2周遅れの11位で完走した · 。フランスではポールシッタークリス・エイモンから6.2秒遅れの16番であったが、アンリ・ペスカロロ決勝から撤退したため15番スタートとなった決勝では1周遅れの16位で完走となった · 。 第7戦イギリスグランプリではポールシッターイクスから4秒遅れの予選25番手となったが、決勝多くリタイヤ助けられ優勝したフィッティパルディから5周遅れの10位で完走した · 。 ドイツでシュトメレンは予選14番手となり、それまでの最高の成績出した。これはポールシッターイクスから10秒遅れであった。このパフォーマンス決勝発揮できず、12位で数周走った最下位まで転落し6周目電気系トラブルリタイアとなった · · 。 オーストリアでフィッティパルディから2.65秒遅れの予選17番手となり、決勝は6周遅れの15位で完走扱いとなった · 。アイフェラントにとってこのグランプリ最後のレースとなったチーム資金不足のためF1から撤退した。 シュトメレンは結局ポイント獲得することはできなかった。 E21はその後通常のマーチ・721復元されジョン・ワトソンノンタイトル戦で使用した

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メルツァリオ・A2」の記事における「レース戦歴」の解説

A2は、1979年アルトゥーロ・メルツァリオ独占的に使用した開幕戦アルゼンチンでの予選では、メルツァリオはポールシッタージャック・ラフィットリジェ)よりも6秒以上遅かった。メルツァリオは予選22番であった。彼はブラバムニキ・ラウダ、そしてルノールネ・アルヌーの前でスタートした。メルツァリオは最初ラップドロップアウトした。スタート直後ジョディ・シェクターフェラーリ)、パトリック・タンベイマクラーレン)、ネルソン・ピケブラバム)、ディディエ・ピローニティレル)らが衝突し、それを避けるためにメルツァリオはコースアウトしたが、その過程で彼はマシンコントロール失いA2はひどく損傷したクラッシュしたマシン取り除いた後に再スタートが行われたが、修理は間に合わなかった。続くブラジル南アフリカでは予選通過することはできなかった。 第4戦のアメリカ西グランプリではチーム初のグラウンド・エフェクト・カーであるA3がデビューした。メルツァリオは予選でA3を使用し24番手のタイム出した物のプラクティスの間にA3は不均一なロングビーチサーキットの路面サスペンション損傷を受け、短期間修理リスクが高すぎると考えられた。そのため、メルツァリオA2決勝出場した14周目にエンジントラブル発生そのままリタイアとなった

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メルツァリオ・A4」の記事における「レース戦歴」の解説

A4の唯一のドライバーチームボスであったアルトゥーロ・メルツァリオであった。彼は予選の壁を越えることができず、このシーズン出場した全てのグランプリ予選落ちした。1つ例外除いて、彼はいつも予選で最も遅いドライバーだった。A4は7月イギリスグランプリデビューしたが、予選ではハンス=ヨアヒム・スタックATSよりも2秒遅くポールシッターアラン・ジョーンズウィリアムズからは7秒も遅かったドイツグランプリでは予選通過タイムから6秒遅くポールシッタージャン=ピエール・ジャブイーユルノーから13秒も遅かったオーストリアグランプリでメルツァリオはプラクティス中のアクシデントでA4を破損した。彼は旧型のA3にマシン交換してプラクティス続けたが、通過タイムよりも5秒遅く予選落ちした。ヨーロッパラウンド終盤に入ると僅かに改善兆し見られた。オランダイタリアで予選通過タイムから2.5秒遅れとなり、イタリアでヘクトール・レバークレバーク・HR100よりタイム上回ったしかしながら海を渡ったアメリカとカナダでは再び予選通過タイムから大きく離されることとなったメルツァリオ・A4唯一決勝出場したレース1979年イモラ行われたグランプレミオ・ディ・ディーノ・フェラーリで、これはイタリアグランプリ翌週行われたノンタイトルであったエントリーしたマシン16台のみで、A4は自動的に予選通過することとなった。メルツァリオは13番グリッドからスタートし11位から2周遅れの最下位ゴールした

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メルツァリオ・A3」の記事における「レース戦歴」の解説

メルツァリオは新車のA3をレース・オブ・チャンピオンズエントリーした。これは1979年3月18日予定されていたノンタイトルであったが、大雪のためキャンセルされた。その後2週間で、メルツァリオはフィオラノサーキットでA3を使って何回かのテストドライブ実施した。 A3は1979年シーズン第4戦のアメリカ西グランプリでようやくデビューしたアルトゥーロ・メルツァリオ予選でA3を使用し22番手のタイム予選通過した。しかし、プラクティスの間にA3は不均一なロングビーチサーキットの路面サスペンション損傷し短時間での修理リスクが高すぎると考えられたため、メルツァリオは決勝A2使用した決勝でメルツァリオは14周目にエンジントラブル発生しリタイアとなった。続くスペインベルギーでは2戦ともA3で予選落ちする。スペインでは予選最下位タイムより1.7秒遅くベルギーでは0.5秒遅れであったゾルダー予選でメルツァリオはクラッシュし、右手骨折したため次戦のモナコでは、前2戦にカウーゼンから出場していたジャンフランコ・ブランカテリ起用したしかしながらブランカテリはモナコ予備予選落ちした。ブランカテリのタイム断然遅く彼のタイムポールシッタージョディ・シェクターフェラーリ)のタイムより12秒遅かった。次戦のフランスでメルツァリオは復帰した。A3で予選参加したが、モナコでのブランカテリ同様、最も遅かったフェラーリ比べると、メルツァリオは最高速度で20km/h近くの差があった。 フランスグランプリの後、メルツァリオはA3で使用あきらめたチームイギリスグランプリから、もとはカウーゼンのマシンであったA4を投入した。A3はシーズン残りスペアマシンとして運ばれたが、一度しか使用されなかった。アルトゥーロ・メルツァリオは、オーストリアグランプリ予選中のアクシデントでA4を損傷した後、A3でトレーニングセッション最終ラップ完了した。どちらの車でも、彼は予選通過することはできなかった。 アルトゥーロ・メルツァリオは、A3を現代的バランス取れた優れた車と表現した。彼は、パフォーマンス低さは主にグッドイヤータイヤよるものであり、彼は十分なグリップ得られなかったと考えている。多く文献には、グッドイヤー1970年代後半さまざまな品質タイヤ供給したというコンセンサスがある。高品質タイヤは、当時トップチームしか利用できなかった。一方、他のチーム小規模なプライベーターには「木製」と揶揄された品質の低いタイヤ供給されていたとされる

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メルツァリオ・A1」の記事における「レース戦歴」の解説

メルツァリオはオーストリアグランプリ練習走行でA1/2を初めドライブした。その新車で彼は200分の1秒で予選落ちとなった。続くオランダグランプリでも予選落ちとなったが、サーティースルパート・キーガンウォームアップクラッシュ負傷したためメルツァリオは決勝出場できることとなった。A1/2は初戦となったが、40周目にエンジントラブルリタイアとなったイタリアグランプリでは予選22位で通過一方チームのセカンドドライバーとなったアルベルト・コロンボはA1/1Bで予備予選落ちしている。決勝でメルツァリオは再びエンジントラブルのためリタイアしている。第15アメリカグランプリでは予選26位で通過した決勝ではギアボックストラブルが原因クラッシュリタイアとなっている。シーズン最終戦カナダでは予選落ちとなった1979年シーズン開幕戦アルゼンチンにはA1/2がメルツァリオ・A2資料によってはA1Bとされる。)として改修投入された。

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中子修」の記事における「レース戦歴」の解説

1977年 - 鈴鹿シルバーカップレース第4戦FL500でレースデビュー7位。最終戦2位 1978年鈴鹿シルバーカップレースFL500シリーズチャンピオンレース・ド・ニッポン筑波<スポット参戦>(#20 KS-07) 1979年鈴鹿FL500(#21 ワークエクイプ07B) 日本F3チャレンジカップ(現・全日本F3選手権鴻池スピード #23 ワークエクイプKS-06C)(シリーズ11位) 1980年 - 日本F3チャレンジカップハヤシレーシング #21 ハヤシ803)(シリーズ3位、第7戦 初優勝1981年全日本F3選手権(テクノレーシングチーム #6 テクノ320)(シリーズチャンピオン全日本フォーミュラパシフィックFPハヤシレーシング #21 ハヤシ220P)(シリーズ8位) 1982年全日本FP選手権ハヤシレーシング #6 ハヤシ220P)(シリーズ7位) イギリスF3選手権ハヤシレーシング1983年全日本F2選手権(#6 スピードスターマーチ DL)(シリーズ10位) 富士グランチャンピオンレース東京堂スピードスターマーチ)(ノーポイント) 1984年 - 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(#26 LM04C日産 パナスポーツ日産)(ノーポイント、パートナー鈴木利男1985年全日本ツーリングカー選手権(#15 無限 Civic Si)(後半戦出場シビック初優勝もたらすパートナー中嶋悟全日本F2選手権(#18 オロナミンC高橋車輪ラルトR/H6)(3ポイント・シリーズ17位) 富士グランチャンピオンレース(#21 FALCON パワーラビットマーチ832 DL BMW MCSV)(12ポイント・シリーズ10位) 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(#26/#12 パナスポーツ 日産ターボC LM04C日産)(15.5ポイント・シリーズ21位) 世界耐久選手権第9戦WEC-JAPAN(#12 LM05C日産)(2位1986年全日本ツーリングカー選手権(#16 無限 Civic Si)(1勝、パートナー佐藤浩二富士グランチャンピオンレース(#2 OLIO FIAT 85S マーチ842 BS BMW MCSVI)(38ポイント・シリーズ3位全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(#23 MARCH R86V NISSANニチラ)(1ポイントパートナー星野一義1987年全日本ツーリングカー選手権(#16 無限 MOTUL Civic)(クラス1全勝120ポイント・クラス1シリーズチャンピオン獲得 総合2位パートナー岡田秀樹全日本F3000選手権(#22 BEST HOUSE87B BS DFV)(39ポイント・シリーズ6位) 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(#7 OLIOFIAT 07 TOYOTA)(8.5ポイント・シリーズ32位、パートナー・マウリシオ・サンドロ・サラ 1988年 - 全日本ツーリングカー選手権(#16 無限 MOTUL Civic)(2勝・クラス3シリーズチャンピオン 総合7位、パートナー岡田秀樹1989年全日本ツーリングカー選手権(#16 無限 MOTUL Civic)(2勝・クラス3シリーズ3総合26位、パートナー鈴木利男全日本F3000選手権(#2 CHERENA LOLA-T88,89 BS)(1ポイント・シリーズ17位) 1990年全日本ツーリングカー選手権(#100 出光 MOTION 無限 Civic)(2勝・クラス3シリーズ2総合13位、パートナー岡田秀樹 全日本F3000選手権(#2 CHEREN LOLA T89,90 BS)(3ポイント・シリーズ17位) 全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権 CABIN R90V)(6ポイント・シリーズ29位、パートナー和田孝夫1991年全日本ツーリングカー選手権(#100 出光 MOTION 無限 Civic BS)(2勝・クラス3シリーズチャンピオン 総合16位、パートナー岡田秀樹全日本F3000選手権(#2 CHERENA LOLAT90,91 BS)(ノーポイント) 1992年 - 全日本ツーリングカー選手権(#100 出光 MOTION 無限Civic BS)(4勝・クラス3シリーズチャンピオンパートナー岡田秀樹1993年 - 全日本ツーリングカー選手権(#100 出光 MOTION 無限Civic BS)(3勝・クラス3シリーズチャンピオンパートナー岡田秀樹この年Gr.A終了1994年 - 全日本ツーリングカー選手権TEAM Castlol無限HONDA #16 Castlol 無限 シビックフェリオ) (28ポイント・シリーズ11位) 1995年 - 全日本ツーリングカー選手権(#16 カストロール無限シビックフェリオ)( 28ポイント・シリーズ13位) 1996年全日本ツーリングカー選手権(#16 カストロール 無限Accord)(2勝・シリーズ2位) 全日本GT選手権GT500クラスTEAM TAISAN #34 STPタイサン ポルシェGT2)(シリーズ15位) 1997年 - 全日本ツーリングカー選手権TEAM 無限HONDA #16 Castrol 無限 Accord)(ポールポジション2回 4勝・シリーズチャンピオン1998年 - 全日本GT選手権GT500クラス(CASTROL MUGEN #16 Castrol 無限 NSX)(2勝・4位、パートナー道上龍1999年 - 全日本GT選手権GT500クラスMUGENDOME PROJECT #16 Castrol 無限 NSX)(3位2回・9位、パートナー道上龍2000年 - 全日本GT選手権GT500クラスMUGEN DOME PROJECT #16 Castrol 無限 NSX)(2位2回・10位、パートナー道上龍シリーズチャンピオン獲得

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イーグル・Mk1」の記事における「レース戦歴」の解説

イーグル・Mk11966年ベルギーグランプリデビュー果たしダン・ガーニードライブしたイーグル優雅に細工されシャシーダークブルーペイント覆われラジエーター開口部は白いリップ車体中央には一本の白いストライプ入り即座に視覚的なインパクト与えた。これはアメリカナショナルカラーエレガントに解釈したであったチームにとって残念なことは、その美貌にもかかわらず、車は完成していなかった。1966年イタリアグランプリ新しいV12エンジン導入されガーニー新しいV12車のハンドル握り、古いV8車はフィル・ヒル加入してドライブしたヒル予選落ちし、ガーニーレース中にリタイア不吉なスタートとなったガーニーフランスメキシコの両グランプリポイント獲得したが、どちらもクライマックスエンジンを搭載した車で結果であった1967年シーズンには、クライマックスエンジンのシャシー101カナダ人ドライバーのアル・ピーズに売却されAAR全てのシャシーウェスレイク製V12エンジン搭載したシーズン関係者全員にとって非常に苛立たしいものであったガーニーチームメイトブルース・マクラーレンは、シーズン11戦のグランプリ参加したレース全て予選通過したが、フィニッシュしたのは2戦のみであった。この2戦はいずれ表彰台獲得したことが、イーグル・Mk1スピード強調している。AARの初勝利ブランズ・ハッチ行われた1967年レース・オブ・チャンピオンズであり、ガーニーがこの権威あるノンタイトル戦でアルミニウム製シャシー102勝利導いた1041967年シーズン序盤ザントフォールト行われたオランダグランプリ導入された。Mk1中でも軽量かつ最速であったこの車でガーニーベルギーグランプリ優勝した。この勝利チーム唯一記録した勝利である。 1968年までにインディカーでの成功増加したにもかかわらずアングロ・アメリカン・レーサーズ資金不足し始めていた。イーグル・Mk1開発は、チーム後継であるMk6の設計わずかな資金投入したため中止された。ガーニー1968年シーズン前半の間、古い車を使い続けたが、何回かのリタイアと9位でのフィニッシュ報われた。その複雑なV12エンジンおかげで明らかに信頼性の低い車でも、グリッド維持するのに最も高価な車の1つであるため、チームマクラーレン・M7A購入した皮肉なことにガーニーチーム今シーズン唯一のポイント獲得したのは、前年チームメイトによって製作されマクラーレンであったシーズンの終わりAARUSACレース力を注ぐために、グランプリから撤退したF1レースイーグル・Mk1最後に登場したのは、1969年カナダグランプリであった。アル・ピーズが101ドライブしたピーズのイーグル・クライマックスは、F1史上世界選手権レース走行するには遅すぎるために失格となった唯一の車であるという不名誉被った基本的なMk1 / Mk2シャシー設計は、1970年代初頭までアメリカで選手権レース使用され続けた当時のほとんどの車と共通して実験的なウィングや他の空力補助装置ガーニーの名を冠したガーニーフラップを含む)は長年わたってテリー設計したしなやかなシャシーラインに追加され、車の視覚的影響減らし、車の最も注目すべき単一デザイン機能であるくちばし型ノーズ痕跡覆い隠した

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ローラ・T97/30」の記事における「レース戦歴」の解説

ローラ1997年シーズン新規参入した2番目のチームで、もう1つスチュワート・グランプリだった。メインスポンサーマスターカード計画よりも一年早く参入することを熱望したため、チームシーズン開始の数週間前に急いでT97/30を製作したスチュワート1996年シーズン終わりまでにエントリー発表し、既に数週間テスト終えていたが、ローラシーズン開幕までほとんど何もできていなかった。 開幕戦メルボルン行われた最初簡単なテストで、2台のT97/30は直線でもコーナーでも遅いことが示された。エアロダイナミクス空気抵抗が多すぎて十分なダウンフォース生じていなかった。これはまた、タイヤ適切な温度まで上昇できないこと意味したドライバー両名とも困難なハンドリング苦労し予選通過タイムを切ることはできなかった。結局、ソスピリは11秒遅れ、ロセットは12秒遅れで両者とも予選落ちとなったマシンはインテルラゴスでのレースのためにブラジル輸送されたが、マスターカードチームサポートから撤退しチーム残り週末ガレージ過ごし続いてチャンピオンシップから撤退したチーム決勝一度進出できずノーポイントで、ランキングとなった

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シムテック・S951」の記事における「レース戦歴」の解説

S951はS941よりはるかに競争力持っていた。フェルスタッペンとスキャッタレーラは何度完走果たしたフェルスタッペン予選中位クラスに付け彼の最高位アルゼンチンでの14であった決勝ではトランスミッショントラブルリタイア終わったまた、決勝における最高のパフォーマンス同じくアルゼンチンで、一時は6位を走行したしかしながらチームにとっての最高成績はスキャッタレーラのアルゼンチンにおける9位であった。 第5戦モナコでは両名ともスタート失敗する最終戦となったこのレースはいずれリタイアとなっている。チーム設立から18ヶ月600ポンド累積債務抱えワースは次戦のカナダGP欠場しスポンサーからの資金確保してフランスGPへの参加目指したが失敗終わったチーム破産し撤退余儀なくされた。S951は1995年7月行われたオークション売却されフェルスタッペン車が1万8000ポンド、スキャッタレーラ車は1万6000ポンド落札された。 S951は1995年から展示されていたが、2006年初め走行した2007年にはEuroBOSS選手権使用されポール・スミスとピーター・アレクサンダーがドライブした

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マトラ・MS9」の記事における「レース戦歴」の解説

MS9開発としての役割にもかかわらず、MS10の準備整っていなかったことから1968年南アフリカグランプリ投入された。マシン下塗りコート淡いグリーンのままであったが、ジャッキー・スチュワートはその性能満足し予選ジム・クラークグラハム・ヒルロータス・49に次ぐ3位となったキャラミ気温冷却問題引き起こし、車のノーズコーン広げられ空気流れ改善した追加ラジエター車体後部取り付けられた。決勝ではスタートスチュワートロータス打ち負かしたが、すぐにクラーク追い抜かれその後ヒルにも追い抜かれた。レース半分終えた直後コネクティングロッド破損しエンジン側面突き抜けMS9レースとそのキャリア終えた

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マトラ・MS10」の記事における「レース戦歴」の解説

ジャッキー・スチュワートBRM2年目立った成績上げられず、1968年ティレルフォーミュラ2 マトラ・チームに移籍F1マシン走らせることとなった。しかし開幕戦南アフリカでは暫定車両MS9出場予選では3番手と印象的な結果出したが、決勝エンジントラブルのためリタイアとなったスチュワートその後ハラマ行われたF2レース手首負傷したため、スペイングランプリにはジャン=ピエール・ベルトワーズ代役として出場、MS10をデビューさせた。ベルトワーズはファステストラップ記録し、5位となった第3モナコでベルトワーズはMS11に乗り換え、MS10はジョニー・セルボ=ギャバンドライブしたスチュワート回復すると、シーズン残りでMS10をドライブしたシーズンが進むにつれ、チームはエアロフォイルの「ウィング」の装着実験した例えば、イタリアアメリカではスチュワートは高い位置マウントしたウィング装着したMS10をドライブしたこの様なハイマウントウィングはロータスドライバー1969年スペイングランプリウィング支柱折れという事故に遭った後に禁止された。1969年南アフリカグランプリでMS10は二つのハイウィングを装着し一つ車体前方もう一つリアサスペンション後方取り付けられた。その他のレースでは、低いウィング取り付けられた。 2台目のMS10はシーズン後半に製造されジョニー・セルボ=ギャバンドライブしたスチュワートこの年、3勝を挙げこの他にもノンタイトル戦のインターナショナルゴールドカップにも勝利しランキング3位となった同様にマトラ・インターナショナルもコンストラクターズランキング3位となった1969年開幕戦南アフリカスチュワート優勝しその後ノンタイトル戦のBRDCインターナショナルトロフィーで3位となった後、MS10はMS80に取って代わられた。

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レース戦歴

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/09/08 19:40 UTC 版)

マセラティ・4CL」の記事における「レース戦歴」の解説

ルイジ・ヴィッロレージの手わたったストリームライナー形状の4CLは1939年トリポリグランプリでデビューしメルセデス新型、W165を抑えてポールポジション獲得したしかしながら、3台の4CLの内ヴィッロレージのマシンともう一台レース序盤エンジントラブルのためリタイアしシルバーアロー勝利を収めた。この失望デビュー続いて、4CLの最初勝利は2戦後のナポリグランプリにおけるプライベーター、ジョニー・ウェイクフィールドによる物となり、ワークスチームにとっては不本意な結果となった1939年シーズン残りレースウェイクフィールドはさらに2勝を挙げ大戦前の国際的な競争激化する前に、4CLは更に2勝を挙げた。ヴィッロレージは1940年タルガ・フローリオ勝利を獲得したが、これは枢軸国のみのエントリーマセラティだけがファクトリーチームであったものの、他のチーム国際的なレベルには無かった1946年レース再開マセラティ・4CLはその競争力証明した。ルイジ・ヴィッロレージは1946年ニースグランプリで勝利し、すぐに優勝街道復帰したタツィオ・ヌヴォラーリとジョルジオ・ペラッサは共に4CLで勝利したが、シーズン支配したのはレイモン・ソメール彼の4CLだった。1947年は4CLが最も成功したシーズンとなり、アルファロメオ改良され158新型308投入したにもかかわらずマセラティドライバー達は合計して10回の勝利を収めたファクトリーチームは4CLに代わって4CLTを導入したが、古い4CLは多くプライベーターの手渡った1950年最初F1世界選手権開催されたが、多数プライベーターが4CLでエントリーした

※この「レース戦歴」の解説は、「マセラティ・4CL」の解説の一部です。
「レース戦歴」を含む「マセラティ・4CL」の記事については、「マセラティ・4CL」の概要を参照ください。

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