レース復帰・北京オリンピック出場
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「長塚智広」の記事における「レース復帰・北京オリンピック出場」の解説
2006年3月4日、静岡競輪場での開催からようやく復帰。戦法を再び自在に戻すことになった。その結果、FI(S級シリーズ)ではしばし優勝も経験。また2007年のふるさとダービー(松阪競輪場)では決勝2着に入った。 一方、自転車競技のほうでも、2007年1月より日本代表監督に就任したフレデリック・マニェが北京オリンピックのチームスプリントでメダル獲得を確実にしたい思いから、2007年〜2008年シーズンの国際大会に一度も参加していなかったにもかかわらず、2008年5月7日、北京オリンピックトラックレース日本代表選手に選出した。この直後から長塚は水泳競技で用いられるようになったレーザー・レーサーの「加圧効果」に注目し、特注したレーザー・レーサー仕様の下着をユニフォームに着込む形で北京オリンピックに臨み、チームスプリント競技のみに出場することになった。 迎えた予選タイムトライアルでは日本チームの第1走者として発走した直後、長塚の強烈なスタートダッシュで自転車後輪に異常が生じてしまう。この時使用していたカーボン製のディスクホイールが破断してしまったのである。これはマヴィックが長塚のためだけに用意した世界で一枚だけのスペシャルホイールであり、他選手も使用するメーカーであったことから通常起こり得ない製造ミスとして認められ、日本チームは再発走となったが、この思わぬアクシデントと、アテネ五輪以降の国際大会における出走経験の不足から周囲から心配された。このアクシデントは世界一のスタートを誇る長塚を封じるための陰謀との噂が出ているほどだ。予選再発走では思ったほどのタイムは出せなかったものの、第2走の渡邉一成、第3走の永井清史の頑張りもあり、6位のタイムで予選を通過した。その後、1回戦で予選タイム3位となった前回優勝のドイツと対戦し敗退。この時点で予選時の順位となる6位入賞が確定した。
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