レース復帰の決定(1933年)
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「モータースポーツにおけるメルセデス・ベンツ」の記事における「レース復帰の決定(1933年)」の解説
ヴィルヘルム・キッセル アドルフ・ヒトラー 1932年10月12日、AIACRは安全性の向上を理由としてレーシングカーの重量(乾燥重量)を最大750㎏とする新たな規則を定め、1934年から施行することを決定した。これにより、規則が施行される1934年以降はSシリーズ(S/SS/SSK/SSKL)でレースを続けることは難しくなり、ダイムラー・ベンツは新型車を開発してレースを続行するか、レースから完全に撤退するかの岐路に立たされる。 そんな中、1933年1月30日に国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス、ナチ党)の指導者であるアドルフ・ヒトラーが首相に任命され、ヒトラー内閣が成立した。翌2月のベルリンモーターショー(IAA)で、ヒトラーはドイツの自動車産業振興を謳い、自動車レースにおける勝利の重要性を訴える演説を行った。 1933年3月、ダイムラー・ベンツの首脳陣は翌年からのレース復帰を決定し、新型レーシングカーの開発を承認した。ダイムラー・ベンツは自動車レースへの復帰は自社の宣伝が主目的だと説明した。キッセルはノイバウアーとの約束を守ったことになるが、レース復帰が可能となった要因として、自動車産業に並々ならぬ情熱を持ったナチス政権の後押しによって、会社の財政状況に改善の目途が立ったことが大きかった。 ナチス政権は労働組合を禁止するとともに(「ドイツ労働戦線」も参照)、ダイムラー・ベンツのような企業には兵器などの軍需製品の発注を大幅に増やし、これらの政策はダイムラー・ベンツの経営陣を安堵させることになった(同社の大株主だったドイツ銀行もナチス政権に協力した)。実際に、1930年代半ば以降、ダイムラー・ベンツの売上はナチス・ドイツ政府からの航空機エンジンやトラックの発注によって拡大し続けることとなり、経営基盤が盤石となったことで、それまでのように経営状況にレース活動が左右される心配はなくなった。
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