1939年・最後のヨーロッパ選手権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/23 00:31 UTC 版)
「ルドルフ・カラツィオラ」の記事における「1939年・最後のヨーロッパ選手権」の解説
「1939年のグランプリ・シーズン」も参照 この年のレースはヨーロッパを取り巻く政治情勢が緊迫していく中で行われた。レースにおいてはチームメイトのヘルマン・ラングが才能を開花させ、カラツィオラはラングに対抗心を燃やすことになる。 ヨーロッパのレースシーズンの幕開けとなる4月のポーグランプリ(英語版)は、当初はカラツィオラがリードしていたが、トラブルにより修理している間に後退し、ラングがこのレースを制した。続く、5月初め、メルセデスチームはトリポリグランプリ(フランス語版)に挑むこととなる。このレースはイタリア勢の思惑により、1.5リッター以下の車両しか参加できないという規則が前年9月に急に決定した経緯があり、規定に合う車両を持っていなかったメルセデスチームは「W165」を、8か月という、通常ではあり得ない短期間で開発してこのレースに臨んだ。完成した車両は2台しかなかったため、カラツィオラとラングのみで参戦することになったが、ノイバウアーが二人に与えたレース戦略を分けたことも影響して、カラツィオラはラングが優遇されているように感じ、ラングも同様にカラツィオラが優遇されているように感じ、チームメイト間で大きな亀裂が生じることになった。 選手権レースが始まると、最初の2戦はリタイアとなり、7月に開催された第3戦ドイツグランプリ(英語版)はアウトウニオンのヘルマン・パウル・ミューラーとの一騎打ちを制して優勝し、これがドイツグランプリで6勝目で、カラツィオラにとってはグランプリレースで最後の優勝となった。 この年はラングに終始リードされ、やがて9月に第二次世界大戦が始まったことでレースは中止となってしまう。これにより、カラツィオラのレーシングドライバーとしてのキャリアは一旦停止することとなる。
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