1930年代の中性子物理学
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「中性子の発見」の記事における「1930年代の中性子物理学」の解説
「中性子磁気モーメント(英語版)」、「エンリコ・フェルミ」、「リーゼ・マイトナー」、および「オットー・ハーン」も参照 中性子が発見されてから間もなく、間接的な証拠により中性子がその磁気モーメントに対して予期せず0でない値を持っていることが示唆された。中性子の磁気モーメントを測定する試みは、1933年にオットー・シュテルンがハンブルクにて陽子が異常に大きな磁気モーメントを持っていることを発見したことから始まる。1934年までにシュテルン(このときはピッツバーグにいた)とニューヨークのI. I. ラービ率いるグループが独立に、陽子と重陽子の磁気モーメントを測定することにより中性子の磁気モーメントは負であり、予想外に大きいことを推測した。中性子の磁気モーメントの値は、原子スペクトルの超微細構造の研究からアナーバーのRobert Bacher (1933) とソ連のイーゴリ・タムとS.A. Altshuler (1934)によっても決定された。1930年代後半までに、中性子の磁気モーメントの正確な値は、新たに開発された核磁気共鳴技術を使用した測定によりラービのグループにより推定された。陽子の磁気モーメントが大きかったことと中性子の磁気モーメントが負と推定されたことは予想外であり、多くの疑問を提起した。 中性子の発見は、原子核の特性を調べるための新たな道具を科学者に与えた。アルファ粒子は散乱実験で過去数十年にわたり使用されていたが、この粒子はヘリウムの原子核であり+2の電荷を持つ。アルファ粒子はこの電荷によりクーロン反発力に打ち勝ち、原子核と直接相互作用するのが難しくなる。中性子は電荷を持たないため、原子核と相互作用するためにこの力に打ち勝つ必要はない。中性子の発見とほぼ同時期に、チャドウィックの同僚であり弟子であるNorman Featherにより窒素を用いる散乱実験に使われた。Featherは、窒素原子核と相互作用する中性子は陽子に散乱するか窒素を崩壊させアルファ粒子の放出とともにホウ素を形成させることを示すことができた。よってFeatherは中性子が核崩壊を引き起こすことを初めて示した人物である。 ローマでは、エンリコ・フェルミが重い元素に中性子を照射し、生成物が放射性であることを発見した。1934年までに、フェルミは中性子を使用して22種類の元素(この多くは原子番号の大きい元素)の放射能を誘起した。フェルミは自身の研究室で行った中性子による他の実験が、大理石のテーブルの上よりも木製のテーブルの上の方がうまくいくことに気づき、木の陽子が中性子を遅らせ中性子と核が相互作用する可能性を高めていると考えた。それゆえ中性子をパラフィンワックスに通し速度を落とし、照射された元素の放射能が100倍増加させた。原子核との相互作用の断面積は高速中性子よりも低速中性子の場合にはるかに大きくなる。1938年、フェルミは「中性子照射により生成された新たな放射性元素の存在の実証、および低速中性子により引き起こされる核反応の関連する発見」でノーベル物理学賞を受賞した。 ベルリンでは、リーゼ・マイトナーとオットー・ハーンが助手フリッツ・シュトラスマンと協力して、フェルミと彼のチームが始めた研究をウランに中性子を照射することによりさらに進めた。1934年から1938年にかけてハーン、マイトナー、シュトラスマンはこれらの実験から多数の放射性変換生成物を発見したが全てを超ウラン元素とみなした。超ウラン核種は中性子吸収により形成されたウラン(92)より大きな原子番号を持つものであり、自然には発生しない。1938年7月、アンシュルスの後マイトナーはナチスドイツでの反ユダヤの迫害から逃れざるをえなくなり、スウェーデンで新たな地位を確保することができた。1938年12月16-17日に行われた重大な実験(「ラジウム-バリウム-メソトリウム分別」と呼ばれる化学プロセスを使用)は不可解な結果をもたらした。彼らがラジウムの3つの同位体と理解していたものは、矛盾なくバリウムとして振舞っていた。ラジウム(原子番号88)とバリウム(原子番号56)は同じ族である。1939年1月まで、ハーンは超ウラン核種と考えていたものがバリウム、ランタン、セリウム、軽い白金族元素などずっと軽い核種であると結論づけた。マイトナーとその甥オットー・フリッシュは、これらの観察結果を核分裂(この用語はフリッシュが造語)から生じたものとすぐに正しく解釈した。ハーンと共同研究者は、中性子吸収により不安定になったウラン核がより軽い元素に分裂することを検出した。マイトナーとフリッシュは各ウラン原子の核分裂が約200 MeVのエネルギーを放出することも示した。核分裂の発見は原子物理学者の世界的コミュニティと大衆に衝撃を与えた。核分裂に関する2番目の出版物で、ハーンとシュトラスマンは核分裂過程の間の追加の中性子の存在と遊離を予測した。フレデリック・ジョリオとそのチームは1939年3月にこの現象が連鎖反応であることを証明した。1945年、「重い原子核の核分裂の発見」で1944年のノーベル化学賞を受け取った。
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