1930年代の反ファシズム知識人団体に対する距離
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「ジャン・ポーラン」の記事における「1930年代の反ファシズム知識人団体に対する距離」の解説
1930年代に知識人による反ファシズム団体が結成された。1931年に『ノートル・タン』に過激なナショナリズムに反対し、欧州・独仏協調を目指す知識人186人のマニフェストが掲載され、ロマン・ロランとアンリ・バルビュスは1932年に国際反戦会議を呼びかけた。アムステルダムで開催されたこの会議に参加した知識人は、パリのサル・プレイエルを拠点とする反ファシズム労働者運動に合流し、アムステルダム=プレイエル運動(フランス語版)を結成した。ロマン・ロランはさらに、作家・政治家のジャン=リシャール・ブロックの協力を得て1923年に反ファシズムの文芸誌『ユーロープ(欧州)』を創刊し、1929年から36年までジャン・ゲーノが編集長を務めた。同誌の経済コラムを担当していた会計院(フランス語版)検査官のフランソワ・ヴァルテルが、反ファシズム知識人監視委員会の結成を呼びかけた。これは直接には、アクション・フランセーズなどの右派・極右勢力がナチスによるドイツ制覇に連動して民衆を扇動し、国会前で共和制打倒の暴動を起こした1934年2月6日の危機に抗議する運動であり、ファシズム勢力に対抗する人民戦線の結成につながった。1935年11月8日には、ジャン・ゲーノ、アンドレ・シャンソン、アンドレ・ヴィオリス(フランス語版)が人民戦線の機関誌『ヴァンドルディ』を創刊した。ポーランは1935年5月の市町村議会議員選挙で人民戦線の候補者としてシャトネ=マラブリー(イル=ド=フランス地域圏オー=ド=セーヌ県)から選出され(1941年まで在任)、『新フランス評論』の活動においても『ヴァンドルディ』と共同戦線を張ったが、知識人の反戦・反ファシズム運動に直接参加することはなかった。
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