1930年代の政治と物理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/01 15:00 UTC 版)
「核兵器の歴史」の記事における「1930年代の政治と物理」の解説
詳細は「物理学の歴史」、「第二次世界大戦」、および「核分裂の発見」を参照 20世紀の最初の10年に、原子の性質について物理学上の革命的な発見がなされた。1898年に、フランスの物理学者のピエール・キュリーと、そのポーランド人の妻マリ・キュリーによってピッチブレンド (閃ウラン鉱) 内から放射性物質が発見され、彼らはその放射性物質をラジウムと名付けた。この発見を知った科学者と一般の人たち両方は、我々のまわりにある物質が、莫大な量の見えないエネルギーを有していることを知り、これを利用できるかもしれないと考えるようになった。 1911年にアーネスト・ラザフォードによって行われた実験によって、原子のほとんどの質量は、原子核と呼ばれる原子の中心部に存在しているということ、原子は陽子という正の電化を持った粒子と、そのまわりを囲む電子を含むことが示された。1932年に、ジェームス・チャドウィックは、原子核にはもう一つの基本的な要素、中性子を含むことを発見した。同年、ジョン・コッククロフトとアーネスト・ウォルトンは、原子を世界で初めて"分割"し、元素を別の元素に人工的に変換する実験を行なった。そして1933年、レオ・シラードは、中性子を用いた連鎖反応のアイデアを構想し、原子爆弾の理論的な可能性を提案した。シラードの取得した原子力の利用に関する特許は、1936年、秘密裏にイギリス海軍に譲渡された。実際に核兵器を開発したわけではないものの、このことをもってシラードを学術的な原子爆弾の父と呼ぶものも居る。 1934年、マリ・キュリーの娘イレーヌ・ジョリオ=キュリーとその夫フレデリックは、アルミニウムへα線を照射することによって、人工放射性同位元素の製造に成功し、翌年二人はノーベル賞を得た。また同年、イタリア人物理学者のエンリコ・フェルミは中性子をウランへ照射することで、同様に放射性同位体が得られることを雑誌のネイチャーで報告している。 1938年の12月、ドイツ人化学者のオットー・ハーンとフリッツ・シュトラスマンはウランへ中性子を照射した後、ウランよりも原子量の小さいバリウムが発見されたと科学雑誌に発表した。同時に、二人はスウェーデンで働く物理学者のリーゼ・マイトナーにこの結果を手紙で相談した。マイトナーとその甥オットー・ロベルト・フリッシュは、すぐにこの結果が、核分裂 (このときはそうは呼ばれていなかったが) によるものだと解釈した。1939年1月13日に、フリッシュはこれを実験で確かめている。この実験の見学希望者の中に、ウィリアム・A・アーノルドというアイルランド系アメリカ人生物学者がおり、彼の言葉からバクテリアの細胞分裂になぞらえてこの現象を"分裂 (fission) "と名付けたという。 オットーとストラスマンの実験に対するマイトナーとフリッツの解釈は、すぐに公表前から大西洋を渡り、アメリカのプリンストン大学教授ニールス・ボーアのもとへ届けられた。プリンストンで働くコロンビア大学教授のイジドール・イザーク・ラービとウィリス・ラムの2人は、核分裂のニュースを聞き、それをコロンビア大学へ持ち帰った。そこで、ラービは数カ月前ノーベル賞を受けたばかりのエンリコ・フェルミにそのニュースを伝えたという。フェルミは核分裂が起こったという結果の正しさを確信した。その後すぐにボーアはフェルミに会うためにプリンストンへ向った。フェルミの教授室には彼が居なかったので、ボーアはプリンストン大学のサイクロトロンエリアへと降りていった。ボーアはそこで中性子の研究中の大学院生ハーバート・アンダーソンを見付けると、そこでウランの原子核の分裂と、その説明モデルについて語ったという。 ウランへ中性子を照射したときに起きる核分裂によって放出されるエネルギーを計測する必要がある、とコロンビア大学の多くの科学者は考えていた。1939年の1月25日に、コロンビア大学の実験チームは大学内のピューピンホール(Pupin Hall)の地下で、アメリカ初の核分裂実験を実施した。 ナチスが1938年にチェコスロバキアへ1939年にポーランドへ侵攻し、第二次世界大戦が勃発すると、ヨーロッパのトップ物理学者たちは差し迫った危機を避け、アメリカへと渡っていった。枢軸国側、同盟国側両方の科学者たちは、核分裂を利用した兵器の実現可能性について自覚していたものの、その時点ではどのように実現されるのかまったく分かっていなかった。にもかかわらず、第二次大戦の初期の数年のうちに、物理学者たちは不意に核物理学について公表することを差し控えるようになった。敵対する側がどんなアドバンテージも得られないようにするための自主検閲であった。
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