1930年代の中独合作
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/14 17:20 UTC 版)
1928年、国民政府の蔣介石の北伐の完成により、中国の統一は一応達成された。しかし中独関係は、世界恐慌の煽りとクリーベルが国民政府との対立から顧問団長を解任されるなどの齟齬が起きたことから1930年から1932年の間は停滞した。さらに、ドイツの産業界、貿易業、ワイマール共和国のドイツ国軍がめいめいに中国利権を獲得しようとしたため、中国における産業の開発は思うように進まなかった。1931年、満州事変で日本が中国軍を一掃し、翌1932年1月3日 には満州を占領。同年1月28日 には第1次上海事変が勃発する。このときドイツ軍事顧問団が指導した第87・88師団が参戦。その後、日本軍が熱河省に侵攻し、万里の長城付近で交戦した際には、クリーベルの後任の顧問団長だったゲオルク・ヴェッツェル中将が自ら中国軍を指揮している。 1933年にナチスが政権を取ると、ドイツの対中政策はより具体性を増した。ワイマール政府は中国を含む極東に表立って干渉しないことを原則としていた。しかし、ドイツ国防軍、産業界・商社は、政府の政策が中国貿易の利益を損なうことがないよう希望していた。その後ナチス・ドイツは、挙国一致での戦争経済推進を政策に掲げ、軍需資源の確保、特に中国で産出されるタングステンとアンチモンを重視したため、これ以降、ドイツの対中国政策が促進された。
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