1930年代の日本をめぐる議論
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/15 23:41 UTC 版)
「ソーシャルダンピング」の記事における「1930年代の日本をめぐる議論」の解説
世界恐慌最中の1931年(昭和6年)以後、日本の輸出が綿布や雑貨などを中心に急速に増加して、輸出先となった欧米の現地企業の経営を悪化させて不況を深刻化させたとしてイギリスをはじめとして欧米諸国において日本の政府や資本家が労働者を非人間的に扱って不当な価格競争をしかけていると批判の声が高まって一部で報復措置が取られて以後、この言葉が注目されるようになった。これに対して高橋亀吉がこれを否定した他、日本の経済学者でもこの批判の是非について議論が行われた。 今日ではこうした批判は事実ではないとする説が有力であるが、その一方で金輸出の再禁止に伴う円相場の急激な下落が輸出拡大の主たる原因であるとは言え、この時期の産業合理化の過程で熟練労働力を整理して人件費などの抑制が図られたことを指摘し、労動者を低賃金の環境下で働かざるを得ない状況を作った当時の日本の生産システムはソーシャルダンピングそのものであるとする反論もある。また、そもそもソーシャルダンピングの存在を判断するための前提となる為替相場の適正水準や各国間の実質賃金水準の比較などは論証が困難であり、なおかつ論争の背景にあるのはあくまでも「政治的問題」であるため、実証が困難であるという考えもある。事実として1934年に国際労働機関(ILO)国際労働局が日本に調査団を派遣して「ソーシャルダンピング」の事実はないと認定されたにもかかわらず、欧米諸国による報復的な関税引上や輸入総量規制などは解除されなかったのである。 ソーシャルダンピングを巡る問題はこの時期の欧米の対日観や日本の経済・労働・貿易の諸政策に対する研究者の関心を高めることとなった。
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