大西洋の主要港
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/08/09 07:06 UTC 版)
「チャールストン (サウスカロライナ州)」の記事における「大西洋の主要港」の解説
18世紀半ばまでに、チャールストンは活気溢れる貿易の中心地となった。南部植民地に向けた大西洋貿易の中継基地となり、フィラデルフィアより南では最も富んだ大都市になった。1770年には、ボストン、ニューヨーク、フィラデルフィアに次いで4番目の大きな港だった。人口は11,000人で、その半数強が奴隷だった。 チャールストンは鹿皮貿易の中継点でもあった。実際に鹿皮貿易はチャールストン初期経済の基盤になった。チェロキー族やクリーク族インディアンとの貿易に関する同盟により鹿皮の確実な供給が約束された。1699年から1715年の間に、毎年平均して54,000枚の鹿皮がチャールストンからヨーロッパに輸出された鹿皮貿易の最高潮時だった1739年から1761年では、推計で50万頭から125万頭の鹿が殺された。この同じ時期にチャールストンから5,239,350ポンド (2,360,000 kg) の鹿皮が輸出されたという記録がある。鹿皮は男性用の流行でありかつ実用的な乗馬用バックスキン・パンタロン、手袋および本の背表紙に使われた。 米とインディゴが海岸周辺の奴隷を所有する農園主によって栽培され成功していた。これらの作物や船舶用ダイオウマツ材は大きな利益を生む造船業用に輸出された。当時のチャールストンは南部の文化と経済の中心だった。 チャールストンが成長するにつれ、文化的、社会的機会、特に特権階級商人と農園主の機会も増大した。1736年にアメリカで最初の劇場が造られた。この建物は19世紀にプランターズ・ホテルとなり、裕福な農園主が競馬シーズンに滞在する所となった。慈善団体が幾つかの民族集団により形成された。1737年にはフランスのユグノーによりサウスカロライナ協会が、1766年にはジャーマン・フレンドリー協会が、1801年にはアイルランド移民によりハイバーニアン協会が創設された。1748年には当時の科学的、哲学的問題に付いていくことを願う裕福な市民によって、チャールストン図書館協会が設立された。この団体は1770年、サウスカロライナでは最古、全米でも13番目の大学、チャールストン大学の開設にも貢献した。
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