映画俳優へ
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1934年(昭和9年)に新興キネマ京都撮影所に入社する。サイレント映画の『恋愛街一丁目』で映画デビューした。当初は台詞の無い役がほとんどだったが、1935年(昭和10年)に伊丹万作監督の第1回トーキー作品『忠次売出す』ではじめて台詞のある役を貰う。それ以降は段々といい役がつき始め、1936年(昭和11年)には第一映画で溝口健二監督の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。 また千恵蔵プロに移籍した伊丹万作に呼ばれた『赤西蠣太』で、現代のサラリーマンのような朴訥とした侍・角又鱈之進を演じてからは、芸達者な脇役として認知され、志村自身も映画開眼した作品と述べている。 同年、松田定次に請われてマキノトーキー製作所に移籍。同社は翌1937年(昭和12年)4月に解散し、辻吉朗の口添えで同年に日活京都撮影所に移籍。1942年(昭和17年)までに100本近い作品に出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖』シリーズでのアバタの敬四郎役は、戦前の出演作品の中でも志村の当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上の主役を演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者のディック・ミネに歌手デビューを勧められたという。 しかしこの頃、かつて新劇の舞台に立っていたことから特別高等警察に京都の太秦警察署(現・右京警察署)へ連行されて20日間ほど拘留、妻・政子と俳優仲間の月形龍之介が身元引受人となり釈放される。戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高を演じるが、これはその時の経験を生かしたという。 1942年、日活と大映との合併をきっかけに退社し、興亜映画(松竹太秦撮影所)に入社する。4本の映画に出演するが、しかしその後は仕事がなく、この頃に新劇を追いやられた東野英治郎、小沢栄太郎、殿山泰司らと生活を助け合う。当時、興亜映画は他社に俳優を貸し出しており、志村の恩人で東宝のプロデューサーの森田信義から打診されて志村も東宝の作品に出演した。1943年(昭和18年)に興亜とは契約が残っていたが、東宝に移籍。数本の戦意高揚映画にも出演している。 1945年(昭和20年)、朝鮮映画社製作の今井正監督作品『愛と誓ひ』ロケで韓国に渡る。このロケがきっかけでキムチが好物となる。この年の8月に終戦を迎えるが、実弟がこの数週間前に南方で戦病死する不幸に見舞われる。 1946年(昭和21年)、東宝オールスター映画の戦後第1作である『或る夜の殿様』にも配役されるなど、俳優としての地歩を固めていた。
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映画俳優へ
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初の映画出演はP.C.L.の第1回作品『音楽喜劇 ほろよひ人生』。P.C.L.時代は主に三枚目を演じることが多かった。1936年、沢村貞子と結婚するが10年後に離婚。P.C.L.が1938年の合併で東宝となった後も、準専属から戦後に専属俳優となり、約50年間に渡って東宝映画で活躍した。第二次世界大戦中、皇室の忠臣たる藤原鎌足をもじった芸名は不敬とされ、一時改名を余儀なくされた。 戦後は黒澤明作品の常連俳優の一人として活躍し、『生きる』の市民係長役、『七人の侍』の百姓役など計12本の黒澤作品に出演し、個性的な役を演じた。黒澤の『隠し砦の三悪人』で千秋実と演じた農民のコンビは、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に登場するC-3POとR2-D2のモデルになった。 また、戦前から『旅役者』などの成瀬巳喜男作品にも計17本出演している。そのほか『サザエさん』シリーズの磯野波平役、薬師丸ひろ子との共演が話題を呼んだ『セーラー服と機関銃』など、数多くの作品に出演した。
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映画俳優へ
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1920年(大正9年)6月、牧野省三が設立した日活関西撮影所俳優養成所に第1期生として入り、中村東鬼蔵を芸名とする。養成所仲間には高木新平がいた。9月公開の尾上松之助主演『仙石権兵衛』での端役が映画デビュー作となり、同年には志村サトと結婚している。翌1921年(大正10年)、牧野の日活退社とともに養成所も解散。中村末之助一座に加わって地方巡業を行い、市川左莚次の付き人をしたが、心臓脚気で一座を抜けて京都に帰っている。 1922年(大正11年)、牧野教育映画製作所に入社、端役として出演した後、1923年(大正12年)にマキノ映画製作所等持院撮影所に入社。阪東妻三郎主演の『鮮血の手形』や『燃ゆる渦巻』などに端役で出演し、『栗飯の焚ける間』で高木と共演。次第に頭角を現し、1924年(大正13年)に『黒母坂』の敵役で牧野に認められ、出世作とした。この頃に門田東鬼蔵と改名し、7月公開の『討たるゝ者』(阪妻主演)で準主演。同作公開後に寿々喜多呂九平が名付け親となり、月形龍之介に改名した。芸名の由来については、「月形半平太」と「机龍之介」を合成した説や、彼の育った岩見沢の近くにあった月形村に関連があるという説がある。 同年8月、マキノは東亜キネマに吸収合併され、同社で『復讐の日』で阪妻と共演後、沼田紅緑監督『刃光』で初主演。1925年(大正14年)6月、牧野は東亜キネマから独立してマキノ・プロダクションを設立、月形もそこへ移り、『修羅八荒』『裁かるゝ者』『転落』などに主演、市川右太衛門と「マキノを担う両星」と謳われた。しかし1926年(大正15年)、妻子ある身でありながら、作品で何度も共演してきたマキノ輝子と不倫し、駆け落ちをした挙句、一女を儲けている。これでマキノを一時解雇され、映画界を去ったが、直木三十五らが間に立って、同年12月に輝子と別れてマキノに復社。東京のスタジオで撮った『涙』が復帰第1作となった。
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