映画俳優へとは? わかりやすく解説

映画俳優へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/06 01:49 UTC 版)

志村喬」の記事における「映画俳優へ」の解説

1934年昭和9年)に新興キネマ京都撮影所入社するサイレント映画の『恋愛一丁目』で映画デビューした。当初台詞の無い役がほとんどだったが、1935年昭和10年)に伊丹万作監督第1回トーキー作品忠次売出すではじめ台詞のある役を貰う。それ以降段々といい役がつき始め1936年昭和11年)には第一映画溝口健二監督の『浪華悲歌』にしたたかな刑事役で出演した。 また千恵蔵プロ移籍した伊丹万作呼ばれた赤西蠣太』で、現代サラリーマンのような朴訥とした侍・角又之進を演じてからは、芸達者脇役として認知され志村自身映画開眼した作品述べている。 同年松田定次請われマキノトーキー製作所移籍同社は翌1937年昭和12年4月解散し辻吉朗口添え同年日活京都撮影所移籍1942年昭和17年)までに100本近い作品出演した。特に嵐寛寿郎主演の『右門捕物帖シリーズでのアバタの敬四郎役は、戦前出演作品中でも志村当り役となった。またマキノ雅弘監督のシネオペレッタ『鴛鴦歌合戦』では事実上主役演じて得意の歌を披露、その歌の上手さに驚いた共演者ディック・ミネ歌手デビュー勧められたという。 しかしこの頃、かつて新劇舞台立っていたことから特別高等警察京都太秦警察署(現・右京警察署)へ連行され20日間ほど拘留、妻・政子俳優仲間月形龍之介身元引受人となり釈放される戦後、『わが青春に悔なし』に出演した際、毒いちごと呼ばれる特高演じるが、これはその時経験生かしたという。 1942年日活大映との合併きっかけ退社し興亜映画松竹太秦撮影所)に入社する。4本の映画出演するが、しかしその後仕事がなく、この頃新劇追いやられた東野英治郎小沢栄太郎殿山泰司らと生活を助け合う当時興亜映画他社俳優貸し出しており、志村恩人東宝プロデューサー森田信義から打診されて志村東宝作品出演した1943年昭和18年)に興亜とは契約残っていたが、東宝移籍数本戦意高揚映画にも出演している。 1945年昭和20年)、朝鮮映画社製作の今井正監督作品『愛と誓ひロケ韓国に渡る。このロケきっかけキムチ好物となる。この年8月終戦迎えるが、実弟がこの数週間前に南方戦病死する不幸に見舞われる1946年昭和21年)、東宝オールスター映画戦後第1作である『或る夜の殿様』にも配役されるなど、俳優としての地歩を固めていた。

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映画俳優へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/03 23:01 UTC 版)

藤原釜足」の記事における「映画俳優へ」の解説

初の映画出演P.C.L.第1回作品音楽喜劇 ほろよひ人生』。P.C.L.時代は主に三枚目演じることが多かった1936年沢村貞子結婚する10年後に離婚P.C.L.1938年合併東宝となった後も、準専属から戦後専属俳優となり、約50年間に渡って東宝映画活躍した第二次世界大戦中皇室忠臣たる藤原鎌足をもじった芸名不敬とされ、一時改名余儀なくされた。 戦後黒澤明作品常連俳優一人として活躍し、『生きる』の市民係長役、『七人の侍』の百姓役など計12本の黒澤作品出演し個性的な役を演じた黒澤の『隠し砦の三悪人』で千秋実演じた農民コンビは、ジョージ・ルーカスの『スター・ウォーズ』に登場するC-3POとR2-D2モデルになったまた、戦前から『旅役者』などの成瀬巳喜男作品にも計17本出演している。そのほか『サザエさん』シリーズ磯野波平役、薬師丸ひろ子との共演話題呼んだ『セーラー服と機関銃』など、数多く作品出演した

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映画俳優へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/04 08:08 UTC 版)

月形龍之介」の記事における「映画俳優へ」の解説

1920年大正9年6月牧野省三設立した日活関西撮影所俳優養成所第1期生として入り中村東鬼蔵芸名とする。養成所仲間には高木新平がいた。9月公開尾上松之助主演仙石権兵衛』での端役映画デビュー作となり、同年には志村サト結婚している。翌1921年大正10年)、牧野日活退社とともに養成所解散中村末之助一座加わって地方巡業行い市川次の付き人をしたが、心臓脚気一座抜けて京都帰っている。 1922年大正11年)、牧野教育映画製作所入社端役として出演した後、1923年大正12年)にマキノ映画製作所等持院撮影所入社阪東妻三郎主演の『鮮血の手形』や『燃ゆ渦巻』などに端役出演し、『栗飯焚ける間』で高木共演次第頭角現し1924年大正13年)に『黒母坂』の敵役牧野認められ出世作とした。この頃門田東鬼蔵改名し7月公開の『討たるゝ者』(阪妻主演)で準主演同作公開後寿々喜多呂九平名付け親となり、月形龍之介改名した芸名の由来については、「月形半平太」と「机龍之介」を合成した説や、彼の育った岩見沢近くにあった月形村関連があるという説がある。 同年8月マキノ東亜キネマ吸収合併され、同社で『復讐の日』で阪妻共演後、沼田紅緑監督『刃光』で初主演1925年大正14年6月牧野東亜キネマから独立してマキノ・プロダクション設立月形もそこへ移り、『修羅八荒』『裁かるゝ者』『転落』などに主演市川右太衛門と「マキノを担う両星」と謳われた。しかし1926年大正15年)、妻子ある身でありながら作品何度も共演してきたマキノ輝子不倫し、駆け落ちをした挙句一女儲けている。これでマキノ一時解雇され、映画界去ったが、直木三十五らが間に立って同年12月に輝子と別れてマキノ復社東京スタジオで撮った『涙』が復帰第1作となった

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