百丈野狐
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/25 07:40 UTC 版)
『無門関』第二則に「百丈野狐(ひゃくじょうやこ)」という公案がある。 百丈が説法していたとき、一人の老人が説法を聞いていた。 ある日老人は退かず一人残ります。百丈は不思議に思い、「一体、お前さんは誰か」と声をかけた。 老人は「私は人間ではありません。大昔この山この寺の住職として住んでいた。ある時、一人の修行者が私に質問をした。『修行に修行を重ね大悟徹底した人は因果律(いんがりつ)の制約を受けるでしょうか、受けないでしょうか?』。私は、即座に、『不落因果――因果の制約を受けない』と答えた。その答えの故にその途端、わたしは野狐の身に堕とされ五百生(五百回の生まれ変わり)して今日に至った。正しい見解をお示し助けて下さい」と懇願した。 そこで、この老人が百丈に同じ質問を問う。「禅の修行が良くできた人でも、因果の法則を免れることはできないのか?」。 百丈は即座に「不眛因果」(因果の法則をくらますことはできない)と答えた。 老人は百丈の言葉によって大悟し、礼拝して去った。その大悟にて野狐の身を脱することができたという。 この問答のあと、百丈は寺の裏山で死んだ狐を亡僧法に依って火葬した。 「不眛因果」の場合、『昧』と『眛』とがよく間違われるが、両方ともバイと音読するマイとも通読する、前者は仏教用語として三昧などに使われ専一・一心などの義であり・くらし・おろかなどの義もある。後者は目くらし、目あきらかならずの義であり、この場合は後者を用いるのが正しいと思われる。一方、どちらを使用してもよいという説もある。 後代、仏教禅宗では、真実禅の悟りに至らず、禅に似て非なる邪禅のことを「野狐禅(やこぜん)」と言うようになった。
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