百二十回本:田虎・王慶説話の挿入
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/28 15:54 UTC 版)
「水滸伝の成立史」の記事における「百二十回本:田虎・王慶説話の挿入」の解説
田虎・王慶征伐とは朝廷に帰順した梁山泊軍が、河北で叛乱を起こした田虎と淮西で叛乱した王慶をそれぞれ討伐する話であり百二十回本の第91回から100回が田虎征伐、101回から110回が王慶征伐でそれぞれ10回というわかりやすい分量となっており、征遼故事(83回から90回)と方臘征伐(111回から120回)の間に挿入されたことが分かる。 元々百回本の第72回で柴進が宮廷の睿思殿に潜入した際、天子(皇帝)を悩ませる四大寇(4つの大盗賊)として「山東宋江、江南方臘、淮西王慶、河北田虎」と記されているのを発見したというエピソードがあるにもかかわらず、百回本では王慶・田虎が全く登場しないことからヒントを得て話が創作され、後から挿入されたものである。初めは百回本の文章を簡略化した文簡本系統の本でこれらのエピソードが挿入され、これを文繁本の形で整理・増補したのが百二十回本にあたる。実際に20回分の増補を行ったのは、袁無涯や楊定見という人物だとされているが、決定的な証拠はないため異説もある。 現行百二十回本の挿増部分では、前半の田虎征伐部分で梁山泊軍に新たに加入した孫安・瓊英・喬道清・馬霊などの登場人物が、王慶征伐部分で戦病死・妊娠・遁世など巧みな手法によって全員が物語から退場し、元の第90回以前の梁山泊軍団に戻っている。このように挿増部分前後で矛盾が生じないように物語が挿入されていることからも、田虎・王慶征伐説話が後から加えられたことが見て取れる。 現存最古の百二十回本のテキストは万暦42年(1614年)の『出像評点忠義水滸全伝』(通称:楊定見本)であり、文繁本百二十回本は、この時期もしくはその直前頃に成立したと思われる。日本へは江戸時代の享保13年(1728年)に輸入されたものを岡島冠山が一部和訳(訓点を施した)したものが発行され、浮世絵師の歌川国芳や葛飾北斎が挿絵を描いて広まった。そのため、日本においては百二十回本が標準的なテキストとして普及することになる。
※この「百二十回本:田虎・王慶説話の挿入」の解説は、「水滸伝の成立史」の解説の一部です。
「百二十回本:田虎・王慶説話の挿入」を含む「水滸伝の成立史」の記事については、「水滸伝の成立史」の概要を参照ください。
- 百二十回本:田虎・王慶説話の挿入のページへのリンク