フォーライフ・レコード
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株式会社フォーライフ・レコード(FOR LIFE RECORDS)は、1975年から2001年まで存在した日本のレコード会社[1]。
注釈
- ^ 実際のカッティングとプレスは東洋化成に委託していた[30]。
- ^ 1970年に渡辺プロダクションがアメリカのワーナー・ブラザースと合弁で設立したワーナー・パイオニア(現:ワーナーミュージック・ジャパン)を、1978年に渡辺プロダクションが資本撤退し、新たにトリオ(現:JVCケンウッド)と西武百貨店の3社で設立したレコード会社[39]。
- ^ タレントにとっては大手芸能プロダクションに所属している方が有利だが、人気と仕事さえあれば個人事務所を設立した方が利益になる。特に原盤制作権を握ることが可能となったニューミュージックの歌手たちは、テレビに出演しなくても利益が上がるため、大手芸能プロの所属を必要とせず個人事務所を設立した[42]。
- ^ 正式なデビューは本レーベルから。実質のデビューシングルは1993年にBMGルームスから発売した「あなたがわからない」。
- ^ 1975年の第一回フォーライフ・レコード新人オーディションに合格後、1977年8月25日に「軽い気持ちで」でデビュー予定だったが見本版だけ作られただけでデビューはしていない。1978年に音楽制作プロダクションビーイングを設立し、音楽プロデューサーとして活躍。フォーライフではザ・モータースポーツ・ミュージック、ムッシュかまやつ、田中律子のプロデュース。1984年には井上陽水のシングル「悲しき恋人」をパインジュースの缶名義で楽曲提供している。
出典
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- ^ 村田久夫・小島智編「小室等インタビュー」『日本のポピュラー史を語る―時代を映した51人の証言』シンコーミュージック、1999年10月14日、84-87頁。ISBN 4-401-613-40-6。
- 1 フォーライフ・レコードとは
- 2 フォーライフ・レコードの概要
- 3 ディスコグラフィ
- 4 2001年時点で所属・リリースをしていたアーティスト
- 5 脚注
固有名詞の分類
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