パックインミュージック
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『パックインミュージック』(Puck In Music)は、1967年7月31日から1982年7月31日まで、TBSラジオをキーステーションに、JRN系列各局で放送されていた深夜放送ラジオ番組。愛称はパック。
注釈
- ^ 10 - 30分程度のフロート番組をまとめて放送するコンプレックス形式。このような体は、のちに1974年から1977年にかけてTBSラジオ(関東ローカル)で放送された『ラジオでこんばんわ』→『5スイート・キャッツ』に引き継がれた。
- ^ 火曜第2部担当の広田綾子、水曜第2部担当の滝良子と木曜第2部担当の馬場こずえは、『歌うヘッドライト』にも続投し、パーソナリティを担当した
- ^ 1971年3月まで土曜(金曜深夜)担当
- ^ a b 水曜(火曜深夜)から移動
- ^ 日曜(土曜深夜)2部より昇格
- ^ 木曜(水曜深夜)へ移動
- ^ a b c 火曜(月曜深夜)へ移動
- ^ 1971年10月より火曜(月曜深夜)担当として復帰
- ^ 水曜〈火曜深夜〉から移動
- ^ 他曜日より一週早く終了し、最終回の1982年7月30日はTBSホールからの公開生放送で終了時点の全パーソナリティ(兵藤ゆきは『ミッドナイト東海』生放送のため電話出演)が集合した特別番組を放送した。歴代パーソナリティから林美雄(特番の進行役も担当)・山本コウタローも出演した。
- ^ このコーナーのみ、1970年10月4日まで続いた。
- ^ 日曜(土曜深夜)へ移動
- ^ 土曜(金曜深夜)から移動
- ^ 日曜(土曜深夜)から移動。→1977年10月より水曜(火曜深夜)第1部担当として復帰
- ^ a b c 『歌うヘッドライト』へ転出
- ^ 金曜(木曜深夜)から移動
- ^ 水曜(火曜深夜)へ移動
- ^ 結核発病のため、短期間で降板。担当したのは5週だったと『久米宏 ラジオなんですけど』(TBSラジオ)2014年3月22日放送分で発言した。
- ^ 1975年10月より水曜(火曜深夜)担当として復帰
- ^ 水曜(火曜深夜)1部へ移動
- ^ 訛ってナッチャコ、または金曜パック、さらに略して金パと呼んだ。
- ^ 基本的に日本のアニメは見ないというスタンス
- ^ この時期の水、木、金は自社制作番組を放送
- ^ ニッポン放送がNRNフルネットの東海ラジオに同番組のネット受けを打診したが、『ミッドナイト東海』を放送中で人気だったために断られた。その後、裏で劣勢を期していた(自社制作番組『CBCビップ・ヤング』を放送)CBCラジオにネット受けを打診。CBCは了承して同番組をネット開始。当番組は東海地区では最後まで、未ネットであった。
- ^ 提供クレジットを兼ねる
- ^ 「ラジオの…」の箇所で、歌詞の第2部を改変している
- ^ 直前までパック・イン・ミュージックの放送が確定しなかったため、『思い出の番組蔵出しスペシャル』という仮題が付けられていた。
- ^ 通常は、ナイターオフのワイド番組『MUSIC24/7』を放送。
- ^ 放送時間は、20:00 - 22:00。ネット局は、21:00まで。
- ^ 山本コウタロー、沢木耕太郎(電話)(3月18日)、永六輔、愛川欽也、奈良岡朋子(電話)(3月19日)、山崎ハコ、伊藤銀次、杉真理(3月20日)が、ゲスト出演。
- ^ 3月21日のみの出演。小島、白石が『我が青春のパック・イン・ミュージック』出演のため、TBSラジオのスタジオから、宮内がパーソナリティを務めた。『我が青春の…』終了後、小島、白石、小室等、山本コウタロー、兵藤ゆき、山崎ハコがスタジオに駆け付け、宮内とともに番組を進行した。
出典
- ^ a b c d e f g 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、39-58頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、56-59頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、144頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、145頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、160頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、184頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ a b 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、185頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、189頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ a b 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、340頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、341,353頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ a b c 月刊ラジオマガジン 1982年5月号 12 - 15ページ記事「どうなっちゃうの深夜放送…『パーソナリティ最後の日』で大異変」より。
- ^ 柳澤健『1974年のサマークリスマス 林美雄とパックインミュージックの時代』集英社、2016年、319-321頁。ISBN 978-4-08-781610-5。
- ^ a b c d パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命(伊藤友治+TBSラジオ 編 DU BOOKS、ディスクユニオン)p.480 - 492 より
- ^ 伊藤友治+TBSラジオ『パック・イン・ミュージック 昭和が生んだラジオ深夜放送革命』ディスクユニオン、2015年、500-503頁。ISBN 978-4-907583-63-7。
- ^ 最終回放送音源
- ^ a b c d 明星(集英社)1979年9月号『ラジオDJ広場』
- ^ a b c d e f g h i 『ラジオライフ』第2巻第2号、三才ブックス、1981年3月1日、73 - 74頁。
- ^ 放送当時の録音
- ^ 明星(集英社)1981年12月号『MYOJO PAPER RADIO』p.177
- ^ a b 明星 1981年6月号 p.155 - 156「MYOJO PAPER RADIO」
- ^ a b 明星 1981年9月号「ラジオDJ広場」p.166 - 167
- ^ 出典 ランラジオ1974年8月号60ページ琉球放送番組表より
パックインミュージック
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白石冬美とともにパーソナリティを務めた「パックインミュージック」は、「ナチチャコ(ナッチャコ)パック」「金パ(金曜パックインミュージック)」などの愛称で親しまれ、1967年の放送開始以来15年間続いた人気番組であったが、放送開始当初の契約は「3ヶ月」であった。 野沢の第一回放送での第一声は、コールランプを非常サインと勘違いした「故障ですか、故障ですか」の大騒ぎ。NGを以てのスタートとなった。その酷過ぎる放送内容で自己嫌悪に陥った野沢は、とても3ヶ月も続かないと思いながら、TBSの前に来るラーメン屋台で泥酔して帰宅したという話がある。 その頃の野沢は、吹き替えも収録スタジオでもみんなの雑談に入れなかったくらいの恥ずかしがり屋で、自分でも何をしゃべったのか覚えていない、気がついたらCMになっていて、自分が無口だということを初めて知ったという。 DJに不馴れな最初期はCM中もサインに気付かず話し続けるなどNGを連発したが、番組自体は野沢の独特の言い回しなどから徐々に人気となる。初期は野沢が迷走的に話し続ける内容で作り手も苦しい状況だったが、リスナーに対して話題を求めるという当時としては画期的なシステムを編み出し、これによって番組は爆発的な人気を得る。また、番組に投書されるハガキの内容も独特なものが寄せられ話題を呼んだ。猥談から食事、趣味、思想と話題が多岐にわたり、「手紙に手紙が繋がっていく」(白石談)という状況も生み、15年間という異例のロングランとなった。 番組内で白石とのデュエット曲「テレホン・ラブ」と「青山レイニーナイト」をリリースした。 野沢は徹底した平和主義者であり、戦争・紛争、武力、暴力またはそれに関わる組織を嫌う。反戦活動をする作家や芸術家、芸能人らとも交流があり、それが番組の話題にもなった。そうした野沢の姿勢・発言から、一部からは「若者に有害な左翼放送である」とクレームが来たこともあるらしいが、投稿の内容にはあまり深くは立ち入りしない方針であった。過去に自殺をほのめかす投稿があり、それに対して行動を起こしたことで幻滅する結果を経験したからとのこと。 熱狂的なファンも多く、番組終了決定の際にはファンがTBSへ抗議のデモをかけるほどだったという。「人気は未だ上り坂で決して低迷はしておらず、局内の人事の都合で打ち切られた」と主張するファンも居たとされる。こういった声がある一方で、番組の初代ディレクターで番組終了決定時にはラジオ編成部で番組編成を担当していた熊沢敦は、「(パックインミュージック終了に至ったのは)比較的年齢の高いヤング層のラジオ離れがあり、他局と同じことをしていたのでは今後ジリ貧になる恐れがあったため、あえて終了という決断をした」と、番組終了の経緯を説明している。
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