パックインミュージック終了、プロデューサーとして
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「林美雄」の記事における「パックインミュージック終了、プロデューサーとして」の解説
1980年9月、林は『パック』をふたたび卒業。最終回では、エンディングテーマ『青春の蹉跌』(井上堯之)にのせて挨拶をしたが、途中で林の声が絞られ、数分間曲のみが流れた。番組終了間際に再び声が流れ「音としては(放送に)出ていませんでしたが、いろんな事をいま言いました…だから、勘弁してくださいね」の言葉で締めた。これについては、2013年12月のTBSラジオの特番「林美雄の空白の3分16秒」にも紹介されている。その後、プロデューサーとして『パック』に携わり、1982年7月、15年に亘る『パックインミュージック』番組全体の最終回では、総合司会を務めた。 『パック』終了後は、番組で培ったプロデュースを生かし、アナウンサーとしての番組出演業務に止まらず、ラジオ編成部の兼任や、アナウンス部副部長(1990年5月から)として後輩アナウンサーの育成など、人材の発掘と育成も並行して行っていった。後輩のTBSアナウンサーの中では、小林豊(1989年入社)が“愛弟子”とされている他、外山惠理(1998年入社)は「私を褒めて下さった唯一の先輩」、安住紳一郎(1997年入社)は「具体的にアナウンス技術を教わったのではないが(林と)一緒にいた経験は、すべてキムチみたいに熟成される」と語っている。 1980年代中盤は『赤坂ライブ』のプロデューサー兼司会者を務め、爆風スランプや渡辺美里らを登場させた。渡辺は後に深夜放送『スーパーギャング』を担当、林本人も同番組プロデューサーを務めた。他にも東京JAPのドラマー・赤坂泰彦のラジオDJとしての才能を見出し、後に赤坂が長年に亘って帯番組を担当するTOKYO FMの担当者に、赤坂を紹介したのも林だった。 同時に、昼の帯番組『歌謡ワイド昼一番』を1985年4月まで担当した他、1986年には音楽に限らず、様々な分野で活躍する人間を紹介する『おもしろ組 '86』を担当。この他、夕方の関東ローカルニュース番組『テレポートTBS6』では、1987年から1989年までスポーツコーナーのキャスターとして出演。1991年10月から2003年3月までは、TBSテレビのオープニング・クロージングのナレーションを担当していた。 1993年10月からは再び昼のワイド番組に復活。『林美雄アフタヌーン〜オーレ!チンタラ歌謡族』のパーソナリティを1995年秋まで務めた他、テレビ『CBSドキュメント』のナレーションも担当した。この頃、50歳を過ぎて自動車免許を取得し、ゴルフを始めた。 2001年10月から編成局アナウンス部副理事を務める。
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