于毒
(?~193) |
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黄巾賊の張角が蜂起すると、于毒らも黒山で叛乱を起こし、賊将はそれぞれ数千から三万の軍勢を率いていた。張燕が黒山賊をたばねるようになると軍勢は百万に脹れあがった。霊帝は討伐することができず、河北諸郡はその損害を被った《張燕伝》。 初平二年(一九一)七月、勃海太守袁紹が韓馥を脅迫して冀州牧の地位を襲うと、同年、于毒は白繞・眭固らとともに十万余りの軍勢で魏郡に侵入した。さらに東郡まで侵出したところ、太守王肱は防ぐことができず、河内に駐屯していた曹操が濮陽に入った。曹操は白繞を撃破し、東郡太守として東武陽に駐屯する《武帝紀》。 翌三年春、曹操が頓丘に陣を移した隙を突き、于毒らは東武陽を攻撃した。しかし曹操はそのまま黒山を急襲しようとしたので、于毒は東武陽攻撃を中止して撤退した。曹操が道中で待ち伏せしており、眭固・於夫羅はそのため敗北した《武帝紀》。 四年三月上巳、袁紹が公孫瓚征討の帰途、薄洛津において賓客たちを集めて大宴会を催していた折り、魏郡の兵士たちが叛逆した。于毒は彼らと手を結んで総勢数万人で鄴城を襲撃、太守栗成を殺害した。韓馥の後任として長安から冀州牧壺寿を迎え入れた《袁紹伝・後漢書同伝》。 袁紹や彼の部下の家族はみな鄴城内にいたが、袁紹が斥丘に引き返してくると、城内の陶升という者が袁紹に内通して逃がしてしまった。于毒は朝歌の鹿馬山蒼厳谷に楯籠ったが、五日間の包囲を受けたすえ壺寿らとともに斬殺された《袁紹伝》。 年代については栗成の項を参照されること。同じ歳、兗州牧金尚を擁した袁術が兗州に進出しており、これと連動したものと見られる。 【参照】袁紹 / 於夫羅 / 王肱 / 韓馥 / 壺寿 / 公孫瓚 / 眭固 / 曹操 / 張燕 / 張角 / 陶升 / 白繞 / 栗成 / 劉宏(霊帝) / 河内郡 / 河北 / 冀州 / 魏郡 / 鄴県 / 黒山 / 斥丘 / 蒼厳谷 / 朝歌県 / 東郡 / 東武陽県 / 頓丘県 / 濮陽県 / 勃海郡 / 鹿場山 / 太守 / 牧 / 黄巾賊 / 黒山賊 / 上巳 |
于毒
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于 毒(う どく、? - 193年)は、中国後漢時代末期の武将。
事跡
姓名 | 于毒 |
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時代 | 後漢時代 |
生没年 | 生年不詳 - 193年(初平4年) |
字・別号 | 〔不詳〕 |
出身地 | 〔不詳〕 |
職官 | 〔黒山軍部将〕 |
爵位・号等 | - |
陣営・所属等 | 〔独立勢力〕 |
家族・一族 | 〔不詳〕 |
黒山軍(黒山賊)の部将の一人。ただし、常山郡の張燕の指揮下にあったとは言い難い。
初平2年(191年)、眭固や白繞とともに10余万の大軍を率いて挙兵し、東郡太守王肱を撃破した。しかし、白繞が援軍として出兵した曹操に濮陽で撃破されたため、曹操が新たに東郡太守となった。
翌3年(192年)春、于毒は曹操が頓丘に出陣した隙を狙い、曹操の本拠地であった東武陽を攻撃した。ところが曹操は、さらにその裏をかいて于毒の根拠地を急襲した。慌てて于毒は引き返したが、途中で曹操軍の伏兵に遭い、眭固と友軍の於夫羅が撃破されるという敗北を喫している。
翌4年(193年)3月、袁紹軍に所属する魏郡駐屯中の一部の部隊が反乱を起こしたため、于毒はこれと連合した。于毒と反乱軍は鄴城を陥落させ、魏郡太守栗成を殺害した。また、董卓が任命した冀州牧の壺寿とも同盟している。
しかし袁紹が反撃に出ると、反乱軍の一員であった陶升が袁紹に内応したため于毒らは劣勢となった。同年6月、于毒は朝歌県の鹿場山(鹿腸山とも)の蒼巌谷に追い込まれてしまい、5日間の包囲を受けた後に敗北し、壺寿とともに斬られた。
なお、小説『三国志演義』には登場しない。
参考文献
- >> 「于毒」を含む用語の索引
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