チェス歴
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「ロベルト・ヒュプナー」の記事における「チェス歴」の解説
1970年代後半から1980年代初頭にかけての全盛期には、ヒュプナーは当時の最強クラスのトーナメントに何度も参加した。例えば、ティルブルフの1978年大会、モントリオールの1979年大会(「トーナメント・オブ・ザ・スターズ」)にアナトリー・カルポフ、ミハイル・タリやヤン・ティマンとともに参加した。ヒュプナーが優勝した大会はヒューストン大会(1974年)、 ミュンヘン大会(1979年開催、ウルフ・アナション、ボリス・スパスキーと同率)、リオデジャネイロ・インターゾーン大会(1979年、ラヨシュ・ポルティッシュ、チグラン・ペトロシアンと同率)、リナレス大会(1985年、リュボミィル・リュボエビッチと同率)である。2000年代に入っても国際大会に出場を続けたが、パピルス古文書学者としての仕事があったため、フルタイムのプロ選手であったことは一度もない。 1993年には世界チェス選手権でガルリ・カスパロフに挑んだナイジェル・ショートのセコンドを務めた。2000年、イスタンブールで開催された第34回チェス・オリンピアードでは、ドイツチームの一員として団体銀メダルを獲得した。 ヒュプナーには1969年にインターナショナルマスター (IM) が授けられ、1971年にグランドマスター(GM) が授けられた。ヒュプナーは1981年と1984年の世界選手権サイクルではキャンディデート(挑戦者の最終候補)のひとりであった。その他にもインターゾーン大会まで進出したことがある。
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チェス歴
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「フランソワ=アンドレ・ダニカン・フィリドール」の記事における「チェス歴」の解説
フィリドールがフランスにおけるチェスの中心地「カフェ・ド・レジャンス」でしばしばプレイするようになったのは1740年ごろのことであるが、それ以後1740年代を通して、偉大なイタリアの選手ジョアッキーノ・グレコ亡きあと最強のチェス・プレイヤーとみなされた。フィリドールはフランスで当時最高の選手であったレガル(Legall de Kermeur)に師事した。はじめのうち、レガルはフィリドールに対してルーク落ちのハンデを与えていたが、わずか3年でフィリドールはレガルに匹敵する実力の持ち主となり、やがては師を凌いでいった。 フィリドールは1745年にイギリスを訪問してシリア出身の名手フィリップ・スタンマ(Phillip Stamma)と対戦し、スタンマに毎回白(先手)を持たせながら8勝1敗1分という大勝利を収めた。1747年には非公式の世界チャンピオンとなっている。 フィリドールは1783年5月9日にロンドンのセント・ジェームズ通りにあるチェスクラブで、目隠しチェス(blindfold chess、盤面を見ずに相手が口で読み上げる駒の動きを記憶しながら行うもの)を同時に3人の対戦相手とやってのけ、友人たちの度肝を抜いた。しかもフィリドールは3人の対戦相手全員に白を持たせ、しかも3人目の相手にはポーン1個落ちで臨んだのである。観戦者たちは、このような離れ技が可能であることを後世の人々は信じてくれないのではないかと考えて宣誓供述書まで作成した。ただし今日のチェスの達人にとってこうした3面指しは珍しいものではなくなっている。晩年(1793年)に至っても、フィリドールはロンドンで67歳にして目隠しチェスの2面指しをして勝利を収めている。 1749年、フィリドールは名著『フィリドールの解析』を出版。これは1871年までに70版を重ね、英語、ドイツ語、イタリア語に翻訳されるほどの画期的なチェスの解説書であった。この本において彼は9通りのオープニング(序盤の定跡)を分析した。フィリドールのオープニングのほとんどはポーンを用いてセンター(盤面中央の4マス)の防御を強化するように工夫されている。彼はチェスにおけるポーンの新しい役割を最も早く認識した人物であり、「ポーンこそがチェスの魂である」との格言を残した。フィリドールがポーンを重視した理由には18世紀フランスの政治的背景が関係しているといわれている。つまり、彼はポーンがチェスにおける「第三身分」であると考えていたというのである(1789年にフランス革命が始まるまで、市民階級は社会において聖職者や貴族より下の第三の身分だとみなされていたフランス革命#革命前夜参照)。 彼はまた、キング以外の駒が白(先手)はルークとビショップ、黒(後手)はルークのみであるような場合にチェックメイトにする定跡(エンドゲーム)についても分析し、今日でも通用する理論を構築した(将棋と違ってチェスの終盤は両者とも駒数が極端に少なくなるので、実力の伯仲する相手のキングを追い詰めることは難しくなる。そのためこうした特殊な場合についての研究は詰め将棋のように芸術性があるばかりでなく、実戦的にも有用なのである。Endgame参照)。こうしたエンドゲームに関する研究の中でも、《ルーク vs. ルーク + ポーン》の不利な状況から引き分けに持ち込む重要なテクニック「フィリドール・ポジション」によってその名は不朽のものとなっている。オープニングの定番「フィリドール・ディフェンス」(1. e4 e5 2. Nf3 d6)もまた彼の名にちなんだものである。
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チェス歴
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「アレクサンドラ・コステニューク」の記事における「チェス歴」の解説
アレクサンドラは5歳の時に父親からチェスを教わった。妹のオクサーナもウーマンFIDEマスター(WFM)である。 2001年、彼女は17歳の時に世界女子チェス選手権で決勝に進出したが、諸宸(中国、現カタール)に敗れた。3年後、彼女はドイツのドレスデンで行われた大会を制し、女子欧州チャンピオンとなった。2005年にサマーラで行われた女子ロシア大会でも優勝した。2006年8月にはエリーザベト・ペーツ(Elisabeth Pähtz、ドイツ)を5.5-2.5で破ってチェス960の初代女子世界チャンピオンになった。2008年の大会ではカテリーナ・ラフノー(Катерина Олександрівна Лагно/Kateryna Lahno、ウクライナ)を2.5-1.5で破ってタイトルを防衛した。しかし、彼女のこれまでの最大の成功はロシアのナリチクで開催された2008年の世界女子チェス選手権で侯逸凡(zh:侯逸凡)(中国)を2.5-1.5で破って優勝したことである。 2004年11月、彼女は10人目の女性のグランドマスターとなった。それ以前に、彼女はウーマングランドマスター(WGM)とインターナショナルマスター(IM)の称号を得ていた。2008年7月時点での国際チェス連盟のイロレーティングでは、彼女は女性の第10位にランクされている。 アレクサンドラのモットーは「チェスはクール(Chess is cool)」と「才色兼備(=美と知は両立できる Beauty and intelligence can go together)」 である。これらの言葉を実践するように、彼女はファッションモデルやチェス大使を務めて、世界中にチェスを普及している。 彼女はまた、自身の生活とチェスイベントの近況を配信する人気のポッドキャスト"Chess is Cool"を主催している。
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