チェス界での来歴
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「ガルリ・カスパロフ」の記事における「チェス界での来歴」の解説
史上最年少の22歳で世界チャンピオンの座を奪取したことに始まり、15年もの間世界チャンピオンのタイトルを保持しつづけた(FIDE:1985 - 1993, PCA:1993 - 2000)。FIDE世界ランキング最高位は1位(1984年1月)で、通算255カ月の世界ランキング1位は史上最長である。FIDE発表のレーティングの最高値は2851(1999年7月、2000年1月)で、これはマグヌス・カールセンが2013年1月に更新するまで、13年間にわたってFIDEレーティングの最高値であった。また22歳6ヶ月での王者も2013年現在更新されていない。 カスパロフは1973年、10歳の時にミハイル・ボトヴィニクが主宰するチェスの学校に入り、チェスプレーヤーとしての英才教育を受けた。カスパロフから見て恩師・校長にあたるボトヴィニクは、ソ連出身のチェス世界チャンピオンの第1号で、複数回のチャンピオンになった経歴だけでなく、工学者でもあったため、プロの世界を離れた後は後進の指導やコンピュータチェスに専念していたのである(このチェスの学校は1980年代後半には、ボトヴィニクとカスパロフが共同で運営する学校になった。ボトヴィニクのチェス学校は、カスパロフ以外にもアナトリー・カルポフやウラジーミル・クラムニクなどの世界チャンピオンが輩出することになった)。 1978年にはソコルスキー記念トーナメントで1位となり、グランドマスターとなった。1980年には世界ジュニアチェス選手権で優勝し、第19回ジュニア世界チャンピオンとなるなど、10代からすでに将来有望な若手として有名であった。 1984年には21歳で初めてチェス世界選手権に出場、初出場にして勝ち進み、10年ほど世界チャンピオンのタイトルを保持するアナトリー・カルポフに挑戦することになった。 この試合は(も)チェス史に残るものであり、その激闘ぶりと異例の展開はしばしばチェス界では語られている。記録としては48局で5勝3敗40引き分けのまま、当時の世界チェス連盟会長カンポマネスの判断により中止とされ、無勝負となったのであり、その経過は次のようなものである。もともと「6局先勝、局数無制限」という条件での試合であった。最初はカルポフが4局連勝した。そこでカスパロフは反省し、戦略を改めた。同時に相手のチャンピオンのカルポフにも様々な思惑が生まれておりプレーのしかたに変化が生じた。その次は驚くことに17局連続で引き分けとなった。第27局でカスパロフが落とし5-0、22引き分けとなった。やがて試合は3か月目に突入した。若きカスパロフは第32局で初勝利し攻勢に転じた。その後5週間にわたり引き分けが続いたが、カスパロフ側のほうが攻め調子であった。世界中のチェスファンはこの試合に終わりがあるのか?と疑問を感じ始めていた。大会運営側はさすがにプレーヤーに休息が必要だと判断し、試合中でありながらゲームが数日間休みになった。これは異例の決定であった。休み明けの第48局にカスパロフは勝利し5-3と迫り、明らかに勢いはカスパロフ側にあった。この時国際チェス連盟(FIDE)のフロレンシオ・カンポマネス会長に対してソ連スポーツ省から圧力がかかり、1985年2月15日、同会長は記者会見を開き、対戦を中止すると発表した。試合は5か月に及んでいたにもかかわらず、結局勝者が無いままに終わりを迎えたのである。6か月後に再戦と決められた。 1985年の再戦では、第一局からカスパロフが勝利。カスパロフはアナトリー・カルポフを破り(当時の)史上最年少世界チャンピオンとなった。その後15年間チャンピオンのタイトルを守り続けたのである。
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