王璡とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 王璡の意味・解説 

王璡

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/05/16 00:02 UTC 版)

王 璡(おう しん、生年不詳 - 宣徳元年3月1日1426年4月8日))は、明代学者官僚は器之。本貫莒州日照県

生涯

経書史書に広く通じ、『春秋』を最も得意とした。はじめ教授となり、事件に連座して遠方に流された。洪武末年、賢能として推薦され、寧波府知府に任じられた。靖難の変が起こり、燕王軍が長江に迫ると、王璡は戦艦を建造して建文帝を守ろうと図った。衛兵に捕縛されて南京に連行された。永楽帝に罪を問われず、釈放されて郷里に帰った。後に翰林院侍講・承直郎となった[1]

宣徳元年3月乙未(1426年4月8日)、死去した[2]

人物・逸話

  • 王璡は夜の四鼓(午前2時ごろ)にろうそくを手に取って読書し、音読の声が署外に聞こえた。学課の諸生たちが訪れるようになり、読み習って怠ることがなかった。
  • 王璡は寧波府内の淫祠を破壊したが、破壊した中に三皇祠が含まれており、ある人がこれに異議を唱えた。王璡は「祀るべきでない祠を淫といい、祀ることのできない祠を瀆という。ただ天子だけが三皇を祀ることができるので、士人や庶民は参加できない。破壊したことに何の疑義があろうか」といった。
  • 王璡は倹約の生活を守っていた。ある日、供え物用の魚羹(魚のスープ)があったが、王璡はその妻に「おまえはわたしが草の根を食べたときのことを覚えているか」といい、命じてこれを埋めさせた。このため当時の人に「埋羹太守」と呼ばれた。
  • 王璡は捕らえられて連行され、永楽帝に「戦艦を造ったのは何のためだ」と問われた。王璡は「海に浮かべて瓜洲に進み、軍の南渡を阻もうとしただけです」と答えた。

脚注

  1. ^ 周閎墓誌
  2. ^ 談遷『国榷』巻19

参考文献

  • 明史』巻143 列伝第31



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  
  •  王璡のページへのリンク

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「王璡」の関連用語

王璡のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



王璡のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの王璡 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS