高経政権
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/05 02:47 UTC 版)
正平13年/延文3年(1358年)、尊氏が死去すると剃髪し道朝と称して2代将軍となった義詮の補佐を行う。正平16年/康安元年(1361年)に、それまで執事(後の管領)であった細川清氏が失脚して南朝へ降ると、一門の長老であった高経の影響力が強まり幕府の実権を掌握した。高経は正平17年/康安2年(1362年)に4男の義将を執事(管領)職に就かせ、実権は自身が握って幕政を主導した(なお、当時の執事と管領は別の役職で高経が管領として執事である義将を補佐したとする異説もある)。また5男の義種を小侍所の頭人(後に侍所頭人)、孫の義高(氏経の子)を引付衆に据えるなど幕府中枢を斯波一族で占めた。高経政権下では防長の大名である大内弘世や山陰に強大な勢力を築いていた山名時氏を幕府へ帰順させることに成功するなど、幕府政治は安定化に向かっていった。また高経は将軍の威信を高める為に将軍邸の造営費を諸侯に負担させたり、諸侯に賦課する武家役(税金)を従来の50分の1から20分の1に引き上げて幕府経済の充実化を図るなど、幕府権威の向上に腐心した。その頃、次男の氏経は九州探題に任ぜられたが、南朝方に敗れて解任されると、先の越前守護の件で氏経と不仲になっていた高経はこれを排し、義将を後継者とした。
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