高綱の戦死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/22 06:06 UTC 版)
背尾三河は足軽に対し、「今回の戦は敵は大勢。勝ち目はない。死ぬことは高綱様への奉公、恐ろしくなったわけではないが、大勢を小勢で守ることは無謀である。小山に援軍を頼んでも無理。今日には落城するであろうからいっそ潔く死ぬしかない」と言って野田方面の皆川方に鉄砲を撃ちかけ乱れる隙に、堤の杉本七右衛門ら伏兵が攻めて不意を突いた。 11月18日、皆川方が総攻撃に出る。背尾三河は西城口で鉄砲と矢で戦った。激戦中の背尾を見ていられず、榎本高綱が出陣。赤色の鎧に金色の陣羽織、鍬形の二つ巴の兜を被り、白地に「榎」という旗を立て、かかれかかれと叫んだものの、皆川方・高田小次郎の放った矢が高綱の馬の太股に当たり、落馬。手早く短刀で喉を刺して自害した。討死の場所は現在もお墓さまと呼ばれ社が祀られている。 城主の討死によって榎本方は降伏。子の高満は小田原に送られた。
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