鷹見泉石とは? わかりやすく解説

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たかみ‐せんせき【鷹見泉石】

読み方:たかみせんせき

[1785〜1858]江戸後期武士蘭学者下総(しもうさ)の人。名は忠常。古河(こが)藩の家老大塩平八郎の乱平定指揮また、地図地理書収集し海外地理研究


鷹見泉石

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/11/24 23:52 UTC 版)

鷹見泉石像(国宝) 渡辺崋山筆

鷹見 泉石(たかみ せんせき、1785年8月3日天明5年6月29日〉 - 1858年8月24日安政5年7月16日[1])は、江戸時代蘭学者であり、下総国古河藩家老である。を忠常、通称を又蔵、十郎左衛門。を伯直(はくちょく)。は泉石の他に楓所(ふうしょ)、泰西堂(たいせいどう)、可琴軒(かきんけん)。また、ヤン・ヘンドリック・ダップル(Jan Hendrik Daper)という名も署名に用いている。  

来歴

天明5年(1785年)、古河藩の御使番役・鷹見忠徳(250)の嫡男として古河城下に誕生する。寛政9年(1797年)、調役給仕として出仕して以降、目付、用人上席、番頭格などを経て、天保2年(1831年)に280石の家老(役高500石)へ昇進した。譜代大名土井家(宗家)は代々幕府の要職を歴任しており、土井利厚利位父子もまた寺社奉行大坂城代京都所司代老中などの要職を務めていた。泉石は藩主に近侍して全国各地へ同行し、これら職務の補佐に務めた。利位が大坂城代であったときに起こった大塩平八郎の乱においては鎮圧にあたっている[2]。「土井の鷹見か、鷹見の土井か」と言われるほどに、その能力は賞賛を受けた[3]弘化2年(1845年)に加増されて330石となるが、翌弘化3年(1846年)に免職となって古河に隠居している。安政5年(1858年)、古河長谷町の隠居屋敷(現:古河歴史博物館の鷹見泉石記念館[4])にて死没。享年74。墓地は茨城県古河市正麟寺

対外危機意識の高まる中、幕政に当たる譜代大名の重臣という立場から、早くから海外事情に関心を寄せ、地理、歴史、兵学、天文、暦数などの文物の収集に努めた。また川路聖謨江川英龍などの幕府要人、渡辺崋山桂川甫周などの蘭学者箕作省吾などの地理学者、司馬江漢谷文晁ら画家、砲術家の高島秋帆、海外渡航者の大黒屋光太夫、足立左内、潁川君平、中山作三郎ら和蘭通詞オランダ商館長(カピタン)のスチュルレルフランス語版など、当時の政治、文化、外交の中枢にある人々と広く交流を持って、洋学界にも大きく寄与した。

主君の土井利位が結晶を観察してまとめた『雪華図説』正続の編集にも携わった。この作業で幕府天文方高橋景保と交流があり、泉石資料にある伊能忠敬が作成した東日本の精密な地図は、高橋景保を経由して入手した可能性が指摘されている[5]

渡辺崋山筆 鷹見泉石像

渡辺崋山の描いた『鷹見泉石像』(東京国立博物館蔵)は天保8年(1837年)、泉石53歳の時の肖像画[6]。西洋の画法も取り入れた近世画の傑作として、国宝に指定されている。烏帽子と服は線描を使った東洋の伝統的な画法、相貌は西洋の陰影法や彩色法を使うという対照的な技法を用いながら全く違和感なく融合させ、人物の内面まで感じさせる高い完成度を持つ[7]。ちなみに絵画の部門では最も時代が新しい国宝である[8]

鷹見泉石日記

『鷹見泉石日記』は彼が職に就いた12歳から、60年間にもわたった自らの公務を中心に書き留められたもの。彼の交友の広さと、客観に徹した文章のために史料価値は高い。特に、藩主利位の大坂城代在職中に起こった大塩平八郎の乱については彼自身が鎮圧に当たった[9]こともあって詳しく記載されている。蘭学者らしく日記中に各所へカステラを贈答する記事が記載されているが、どこで製造されたものか詳細不明である。古河歴史博物館編全8巻が吉川弘文館より刊行されている。

『鷹見泉石日記』をはじめ書状・地図・書籍・絵画・器物など、古河歴史博物館が所蔵する鷹見泉石関係資料3153点が、2004年に国の重要文化財に指定された[10]

鷹見泉石を題材とした作品

脚注

  1. ^ 鷹見泉石』 - コトバンク
  2. ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus. “鷹見泉石(タカミセンセキ)とは? 意味や使い方”. コトバンク. 2024年7月10日閲覧。 “大坂城代在任中の藩主を補佐して大塩平八郎の乱を鎮圧。”
  3. ^ 片桐一男『鷹見泉石: 開国を見通した蘭学家老』中央公論新社、2019年2月。ISBN 978-4-12-005162-3https://books.google.co.jp/books/about/%E9%B7%B9%E8%A6%8B%E6%B3%89%E7%9F%B3.html?id=XRrlwQEACAAJ&redir_esc=y 
  4. ^ 鷹見泉石記念館 古河市ホームページ(2019年1月26日閲覧)。
  5. ^ 【没後200年 伊能忠敬を歩く】(9)茨城の「小京都」古河 家老の絵地図に「接触」の謎および補足記事「藩主は自然科学者」より。『毎日新聞』夕刊2019年1月17日(文化面)2019年1月26日閲覧。
  6. ^ 『週刊朝日百科 日本の国宝 42』、朝日新聞社、1997、p.1 - 64
  7. ^ e国宝 - 鷹見泉石像”. emuseum.nich.go.jp. 国立文化財機構. 2024年11月23日閲覧。 “西洋の陰影法を用いて色面の濃淡で顔の立体感を作りつつ、髪の毛一本一本や細かく短い線を重ねた眉毛、膨らみを感じさせる唇など、随所に崋山の鋭い観察眼にもとづく写実的な描写が光る。(中略)装束(しょうぞく)には東洋画の伝統を踏襲した筆法を用いており、まさに和洋の画風を吸収した崋山の集大成といえよう。泉石の精神性までをも写し出すような品格の漂う肖像画の傑作である。”
  8. ^ 渡辺崋山《鷹見泉石像》和洋調和にみる気魄──「日比野秀男」:アート・アーカイブ探求|美術館・アート情報 artscape”. 美術館・アート情報 artscape. 大日本印刷. 2024年11月23日閲覧。 “1950(昭和25)年に施行された文化財保護法で定められた国宝いわゆる「新国宝」の絵画部門では最も古い指定(1951[昭和26]年6月9日)でありながら、制作年代(1837[天保8]年4月15日)は最も新しい文化財である。”
  9. ^ 蘭学者 鷹見泉石 | こがナビ|古河市観光協会”. 2023年5月16日閲覧。
  10. ^ 平成16年(2004年)の重要文化財指定時の指定点数は3,157点であったが、平成24年(2012年)9月6日文部科学省告示第141号で点数が訂正され、3,153点となっている。内訳は、文書・記録類686点、絵図・地図類768点、書籍類466点、書状類912点、絵画・器物類321点。
  11. ^ 自費出版ブックメイド|著者インタビュー 市原敬子さん | Kプランニング”. www.kplanning.biz. 2024年11月24日閲覧。
  12. ^ 泉石と雪の殿様 : 鷹見泉石ガイドブック | NDLサーチ | 国立国会図書館”. 国立国会図書館サーチ(NDLサーチ). 2024年11月24日閲覧。
  13. ^ 中公叢書 鷹見泉石―開国を見通した蘭学家老”. 紀伊國屋書店ウェブストア|オンライン書店|本、雑誌の通販、電子書籍ストア. 2024年11月24日閲覧。
  14. ^ 映画「SENSEKi」特別試写会のチケットを販売します! | こがナビ|古河市観光協会”. 2024年11月24日閲覧。
  15. ^ 【茨城新聞】鷹見泉石の晩年を映画に 来春公開へ 茨城・古河でオールロケ”. 茨城新聞クロスアイ. 2024年11月24日閲覧。

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