岡研介とは? わかりやすく解説

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おか‐けんかい〔をか‐〕【岡研介】

読み方:おかけんかい

[1799〜1839]江戸後期医師周防(すおう)の人。名は精。漢学広瀬淡窓に、蘭学医学シーボルト学び鳴滝塾頭となる。日本初め生理学紹介


岡研介

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/07/28 05:28 UTC 版)

岡 研介(おか けんかい、寛政11年(1799年) - 天保10年11月3日1839年12月8日))は、江戸時代の蘭方医。周防の人。名は精。字は子究。はじめ周東と号し、のち恥葊とあらためた。

人物

寛政11年(1799年)、周防国平生村(現・山口県熊毛郡平生町)に生まれた。泰純の第5子。文化8年(1811年)、麻郷村の医家志熊氏に漢籍をまなび、文化11年(1814年)、他郷で医学を修め、翌年、安芸に行きとどまること3年、文化14年(1817年)5月、同地の蘭学者中井厚沢の門に入り、同年冬、後藤松眠について学んだ。文政2年(1819年)、萩に開業したが、文政3年(1820年)さらに立志、豊後日田に行き広瀬淡窓に従い、文政5年(1822年)、福岡の亀井昭陽の門に入り、とどまること1年半、文政7年(1824年)2月、長崎に行きシーボルトに師事した。長崎にいること6年余、シーボルトに信用され、美馬順三とともに鳴滝塾の最初の塾長となった。文政13年(1830年)、江戸に出ようとしたが果たせず大坂で開業し、天保3年(1832年)一旦帰郷し、岩国藩当主・吉川経礼に召されて侍医となった。翌年、大坂に帰ったが、幻覚的被害妄想的精神疾患にかかり、帰郷、静養した。天保10年(1839年)11月3日死去。享年41。




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