政治手法について
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:48 UTC 版)
三木の政治手法の特徴としては、徹底的に時間をかけて相手を説得する方法を取ったことが挙げられる。三木はしばしば相手の腕や膝、太腿をつかみ、肩をゆすって熱心に説得を繰り返した。成田知巳社会党委員長は三木に説得されている間、ずっと太腿をつかまれていたため、足が痺れてしまったとの逸話も残っている。また学生時代を通じて弁論で鳴らした三木は、演説にも力を入れた。三木と長年政治活動を共にした井出一太郎は、三木の文章はセンテンスが短く簡潔であり、演説では繰り返しを多用し、国会を「こっくわい」、議会を「ぎくわい」と発音する徳島訛りも時々入るが、これも演説内のアクセントとなっていると見ていた。また自分自身の言葉で語りかけており、これがいわゆる「三木節」と呼ばれるゆえんであるとした。そして三木は演説など政治的発話を行うために、常にメモを作成していた。 三木は極めて言論を重んじており、一般聴衆などに向けての政治的発話では高邁さを、そして政治的会合や一対一での対話の席などでは相手を説得すべく粘っこさを見せた。もともと学生時代から弁論に長けていた三木であったが、言論が封じられる中で戦前の政党、議会政治が自壊していく姿を目の当たりにした三木は、戦前の反省からよりいっそう言論を重んじ、言葉を武器にした活動を見せるようになったと考えられている。また新川敏光は、言論で政治家となった三木にとって言論の力に対する信頼感が根底にあり、三木が理想主義者と呼ばれる真の理由は、三木の語った理想の中にではなく、理想を語る言論そのものへの信頼にあるとした。 三木政権時代、政調会長、総務会長を歴任した松野頼三は、三木の政治手法は独裁からほど遠く、総裁として意見を押し付けることは全くなかったと回想している。三木が強引な政治手法を取らなかったことについては、北岡伸一が政治の大きな刷新のためには強力な政治力、強引な決断が時には必要であるが、三木はそのような決断をしたことがないとし、新川敏光もまた、目的追求型指導者としての見通しの欠如と決断力不足を批判している。一方、三木の側近から後に首相になった海部俊樹は、強引なことを行わない三木の政治手法を、民主主義のルールを守るものとして評価している。
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