須々万沼城攻略
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/25 10:20 UTC 版)
占領した玖珂郡の慰撫と戦力再編の後、岩国の永興寺(ようこうじ)に本陣を移していた毛利軍は、都濃郡にある須々万沼城の攻略を目指した。4月20日に小早川隆景率いる軍勢5,000が攻めるが、沼城に籠もる城主・山崎興盛と大内氏援軍・江良賢宣に撃退される。籠城側は、三方を沼沢に囲まれた城の近くを流れる小辻川を堰き止め、水かさを上げて防備を一層強化していた。籠城兵の数は3,000とも、玖珂郡からの敗残兵らも加わった10,000とも伝えられている。9月22日には毛利隆元が軍勢を率いて再度攻撃するが、やはり落とすことはできなかった。 弘治3年(1557年)2月には元就自身が10,000余の軍勢を率いて沼城攻略を再開した。元就は沼城の背後(北側)に位置する緑山から連なる峰(道徳山)に本陣を構え、隆元は東側の権現山に、隆景は南側の日隈山に布陣。さらに、緑山の西側にある熊ノ尾には山口からの増援に備える軍勢を配置した。2月19日より始まった毛利軍の攻撃に対して城兵は頑強に抵抗したものの、3月2日早朝の総攻撃で毛利軍は投げ入れた編竹と筵で沼地を埋め立て城に迫り、籠城していた男女1,500人余(3,000人余とする説もある)が惨殺された。この時、毛利軍は初めて火縄銃を戦闘に使用している。このような毛利軍の猛攻により、まず江良賢宣が降伏し、その後に興盛も沼城を出て開城した。元就は興盛が毛利家に仕えることを望んだが、興盛はそれを固辞して自害している。 須々万地区には沼城の戦いの関連して「沼を渉る女」と言う民話が伝わる。沼城に籠城する山崎興盛の子・山崎隆次は新婚であったが籠城の前に妻との離別を余儀なくされていた。しかし、離別させられた妻は夫を恋焦がれ、ついにある晩に「恋う人は沼の彼方よ 濡れぬれて わたるわれをば とがめ給うな」と歌って沼の浅瀬を渡ったと言う。また、この女が沼を渡る様子を見た毛利軍が、浅瀬の場所を知って城に攻め入ることができたとされる。
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