敬顕儁とは? わかりやすく解説

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敬顕儁

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/11/16 02:09 UTC 版)

敬 顕儁(けい けんしゅん、生没年不詳)は、中国北魏末から北斉にかけての官僚軍人は孝英。本貫平陽郡泰平県[1][2][3]

経歴

若くして義侠の風があり、豪傑と交友を結んだ。奉朝請を初任とし、羽林監となった。晋州別駕となり、泰平県開国子の爵位を受けた。普泰元年(531年)、高歓が信都で起兵するのに従い、行台倉部郎中となった。に対する攻撃に参加し、土山の築造にあたって[1][2][3]、功績により、永安県侯に封じられた。車騎将軍・度支尚書に任じられ、高歓の下で爾朱兆らを討ち、都官尚書に転じた。汾州刺史や晋州刺史を歴任し、高歓の下で宇文泰とも戦った。燕地で農民の反乱が起こると、これの鎮圧にあたった。儀同三司の位を受け、潁州刺史に任じられた。興和2年(540年)、潁川郡長社県の禅静寺に七層の仏塔を建設した[4]。後に青州刺史に転じた。武定6年(548年)、侯景長江を渡ると、顕儁は斛律平の下で寿陽・宿預の30城あまりを落とし、淮南を平定した[5][6]。三江口の地を攻略し、多くの城戍を築いた[1][2]。北斉の天保4年(553年)12月にの東方白額がひそかに宿豫に入ると、翌年2月に顕儁は段韶の下で宿豫を攻撃した。梁の厳超達らの軍が涇州に迫り、陳霸先が広陵を攻撃しようとし、尹令思が盱眙を襲撃しようと図ったため、段韶は顕儁を宿豫の包囲にとどめて、自らは涇州に向かった。段韶が宿豫に軍を返すと、東方白額は宿豫を開城した[7][8][9]河清年間に顕儁は兗州刺史として死去した[1][2][3]

子に敬長瑜があり、広陵郡太守となった[3]

脚注

  1. ^ a b c d 氣賀澤 2021, p. 368.
  2. ^ a b c d 北斉書 1972, p. 371.
  3. ^ a b c d 北史 1974, p. 1999.
  4. ^ 『金石萃編』巻30
  5. ^ 氣賀澤 2021, p. 230.
  6. ^ 北斉書 1972, p. 229.
  7. ^ 氣賀澤 2021, pp. 203–204.
  8. ^ 北斉書 1972, p. 210.
  9. ^ 北史 1974, p. 1961.

伝記資料

  • 北斉書』巻26 列伝第18
  • 北史』巻55 列伝第43
  • 禅静寺刹前銘敬史君之碑(敬史君碑)

参考文献




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