賈玄碩
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/01/14 04:36 UTC 版)
ナビゲーションに移動 検索に移動賈 玄碩(か げんせき、生年不詳 - 351年)は、五胡十六国時代の前秦の人物。武威郡の人。前秦創立に貢献したが、初代皇帝苻健に疎まれて殺された。
生涯
苻健に仕えていた。
350年8月、苻健が東晋の征西大将軍・都督関中諸軍事・雍州刺史を自称すると、賈玄碩は左長史に任じられた。
軍師将軍に任じられた。
351年1月、賈玄碩らは劉備が漢中王を称した故事にならい、都督関中諸軍事・大将軍・大単于・秦王[1]を称するように勧めたが、苻健は怒ってこれを却下した。
苻健は密かに梁安を介して、賈玄碩らに尊号を捧げるように根回しさせた。賈玄碩らの請願に対し、苻健は幾度かの固辞の末、これを容れて天王・大単于の位についた。
中書令に任じられた。
4月、苻健は賈玄碩が尊号を献上しなかったことを怨んでいた。苻健はある者に賈玄碩が東晋の梁州刺史司馬勲と内通していると密告させ、賈玄碩とその諸子を殺害した。
人物・逸話
賈玄碩は容貌が美しかった。あるとき、苻生が妻とともに楼上にのぼったとき、賈玄碩が庭中にいるところを見て、妻が「あのお方はどなたでしょうか?」と尋ねた。苻生は「お前はあの男が欲しいのか」と言った。その後、賈玄碩は誅殺されたとある[2]。
脚注
参考文献
関連事項
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