同時代人の評価
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 18:29 UTC 版)
庶民らより:孫恩討伐に従事した北府軍団は軍規の乱れが見られたが、劉裕の部隊は最も軍規が厳正であったとして信望を集めた。 劉毅より:桓玄の専横が甚だしかった頃、劉毅の家に赴いた何無忌が「桓氏の天下をひっくり返すとしたら誰だろうな?」と聞いた。劉毅はやや言葉を濁した後、「劉裕殿くらいではないかな」と回答している。 桓玄より1:桓玄は劉裕を初めて目の当たりとしたときに「いかにも只者でない風貌であった。きっと人傑とはあのような者の事を言うのだろうな」と述べている。また桓玄の妻は劉裕を恐れて殺害する事を夫に薦めていた。桓玄は「わしは中原も平定したいのだ。劉裕なしでこの大事業はなしえまい。関中の平定がなってからそのことは考えるしかない」と答えている。 桓玄より2:劉裕が決起したとき、桓玄は、敵を侮る配下に対し「劉裕は一世の雄と呼ぶに足る男なのだぞ」と説いている。 安帝より1:安帝は復帰後、桓玄打倒が正規の手続きを踏まぬ決起であったため、その義挙を讃えるための制度がうまく整っていないと告白した。確かにその功績が偉大なものであったと強調し、確かな褒賞の下賜を約束した。 南燕の韓范より:南燕が劉裕に攻め立てられるに際し、韓范は後秦に援軍要請に出向いた。一度は要請が受理されたものの、間もなく赫連勃勃が後秦軍を破り、派出される予定であった援軍までもが赫連勃勃軍討伐に充てられた。この事態を受けた韓范は悲嘆に暮れ、「もはやこれはやつに天命がやどり、人知の及ぶところではなくなったよう思えてならぬ」と呟いた。 五斗米道の徐道覆より:盧循の部下の徐道覆は「劉裕が自ら指揮を執ってここまで攻め込んできてしまえば、もはや盧循様の神武をもっても敵うものではありません」と、劉裕が南燕に出向いているうちに建康を落とすべく説得している。 後秦の姚興より1:姚興は桓玄政権時に南陽郡を含む十二郡を制圧していた。劉裕が桓玄打倒後にこれらの郡の返却を求めたところ、「微賤より立った者が晋を復興したのだ、この美辞を讃えぬわけにはゆくまい」と、返却に応じた。 後秦の姚興より2:盧循制圧後後秦との国境付近に軍備を整えた劉裕の動きを見て、姚興は劉裕程度では後秦を攻めることは出来ないとしながらも、自らの死後には攻めてくるのではないかと憂慮している。 東晋皇族の司馬国璠より:後秦に亡命した司馬国璠は、その亡命理由を「劉裕が晋の王室及び皇族のうち勢力持てる者を害さんとしているため」とし、その手口を批判している。 司馬休之より1:司馬休之は劉裕による圧迫を受ける中、安帝への上奏において劉裕の武功が古今類を見ない圧倒的なものであることを認めつつ、ゆえにこそ驕り高ぶり、皇室をも圧迫し始めたことを糾弾している。 司馬休之より2:後秦に亡命した司馬休之は、姚興より劉裕が晋の家臣ではないのかと問われたところ「以前司馬德文様が仰有っておりました、劉裕が陛下を軽んじること甚だしいと。ならば国家の憂いは測り知れません」と答えた。 北魏の崔浩より:北魏の明元帝拓跋嗣は崔浩に、劉裕の才覚が慕容垂と比較していかなるものであるかを質問している。崔浩は慕容垂が父祖以来の資源に基づき活躍したのに対し、劉裕は寒微の生まれから出たにも関わらず赫赫たる武功を挙げていることを理由に挙げ、劉裕が上であると語った。また「劉裕が逆乱を平らげたること、司馬徳宗(東晋の安帝)にとっての曹操に値する」と評した。 赫連夏の王買徳より:赫連勃勃は謀臣の王買徳に劉裕の後秦討伐について問うている。王買徳は「乱をもって乱を制するたぐいのふるまいであり、そこに平和をもたらそうという意図は見えません。長安は要衝と呼べる地ではありますが、そこに幼児を置いて早々に帰還してしまったのが何よりの証拠です。陛下が攻撃を仕掛ければ、たやすく攻め落とせるでしょう」と劉裕の措置の脆弱さを論じた。 安帝より2:劉裕に九錫がもたらされるに当たり、授与の根拠となった九つの大功が列挙された。①東晋復興②桓玄討伐③東晋宮中の引き締め④南燕討伐⑤五斗米道殲滅⑥劉毅粛清⑦譙縦討伐⑧司馬休之征伐⑨洛陽・長安奪還である。 陶淵明より:直接的な劉裕批判の言及はないが、義熙年間は年号で日付を記していた陶淵明が、元熙年間以降は干支のみで日付を表すようになり、宋の元号を忌避する形で意思を表明した。
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