同時代人物の人物評
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/10 06:59 UTC 版)
尾崎咢堂 「予は四十有余年の久しき間、親しく教えを受けたが、大隈候の怒った顔を見たことがない」 渋沢栄一「逢って見ると案に相違の書生肌で、その間に少しの隔たりもない。君も僕も勉強中の書生なのだから、堅苦しい事は一切やめて、愉快な書生づき合いで仕事をやろうじゃないかという。私は驚きもしたし、また非常な愉快を感じたのでした」 「大隈重信候は他人の言葉を聞くよりも、他人に自分の説を聞かせるのを主とする御仁である。大隈候のところで出かけた人は、自分ではいかに申し上げてきたつもりになっていても、たいていは申し上げずに申し聞かされて帰るのが通例である。ややもすればこちらの話が終わるのを待っていられず、途中から横道に話を引き込んで、自分の話を聞かせようとするクセがある。ただ大隈候について感心するところは、あの通り他人に聞かせるばかりで、容易に他人の話を聞こうとしないわりに、他人からちょっと話したことを案外よく記憶されていることである」 関直彦「よく細事を記憶し、その人に会う時は、必ずその申越に対して返答を為し、その贈物に対して挨拶を為すを例とす。前年余が京都に行きし時、あたかも秋の頃にて、松茸が市に現われ始めたれば、五百目ばかり少量の松茸を伯邸に送りたるころあり。その後掛け違いて半年も面会せざりしが、たまたま伯は関西の遊説に赴かれし時、余も新橋駅に見送りしに、伯は周園に群がる人々を押し分け、不自由の足を引き摺りながら、余の立てる前に来られ、『関君、先達っては松茸の初物をわざわざ京都から贈られ、誠に結構であった、有難う』と挨拶をせられぬ。既にその事を忘れていたる余は却って面喰いしが、もし地方の淳朴なる有志なりせば、涙を溢して喜ぶなるべし。人心収攬の機微は成る程この所だなと感心せしことあり」 「伊藤公は官僚の巨頭 大隈伯は政党の首領」 伊藤痴遊 「一番の長所は弁舌であったが、実をいうと、冗舌の多い割に、聞く人をしてそういう風に感ぜしめなかった所がある。演説でも、講演でも、広げるだけ広げて、どういう風につぼめて行くかと思っているうちに、いつの間にかその締めくくりをつけてしまう、といった調子のあの呼吸は、学ばんと欲して及び得ざる所である。快活であり、かつ豪放であり、どうかすると何を言っているのか論点の判らぬ事はあるが、それでも聞いている者には少しも倦怠を与えず、まことによい感じを与えるのが、大隈の弁舌であった」 堀江秀雄 「豪宕の相貌ありて多言、とてもかくても他人に下らざる属気があった」 松井広吉 「何といっても気持ちの良い、しかして政界の人気役者の随一は大隈候だ」 池辺三山 「私が大隈さんに一番感心しているのは、弁舌の面白いことだ。頭の中で議論を組み立てることの敏捷く手早いこと、何でも取り込んできて堂々たる大議論を咄嗟に纏め上げる手際。そういう点で私はあの人を感心している。畢竟それは記憶がよいためであろうが、実際あの人の記憶の機関というものはよほどよろしい。弁舌の上からいったならば、あのくらいの年になった政治家の中でちょっと敵手はありますまい。死んだ伊藤公でも匹わない。もっとも伊藤公も座談はなかなかうまかった。けれども演説にかけてはとても大隈さんに匹わない。ともかくも大隈さんの演説には、何もかも言いまくってしまうという勢いがある。それがあの人の長所なんだが、つまるところそれがまたあの人の短所であるかもしれない」 憲政本党党員だが、反大隈の改革派に属していた木下謙次郎は、第二次大隈内閣成立の際に逓信次官となった。この際大隈は「をを、木下来たか、よう来た、大分肥って大きくなった」と言って48歳の木下の頭をなでたという。木下は大隈を「生活向きは派手で、非常に負けん気の強い野心家であり、かつ度量の大きい人」と評している。
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