同時代人物の評価とは? わかりやすく解説

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同時代人物の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/04 01:37 UTC 版)

三条実美」の記事における「同時代人物の評価」の解説

伊藤博文「公の資性寛仁大度にして誠によく衆を容るるの量があった。しかして外は温厚君子であったが、内はまた自ら大義守っていやしくも屈すべからざるの節を持って居られ御方である。その平素の行状方正にして謹直、少しも人と争議するようのことはなかった。蓋し完璧無瑾の人であった長州琉寓の当時毛利家は非常に公の一行優遇したので、幕府から嘩ましく云われたことがある七卿中でも公は第一位の席を占めて居られ御方である」 「その徳望もとより世人の知る所であって、公が在世中は朝野共に重望を寄せ公に向っては一回悪しき批評をするものはなかった。ソコが條公の條公たる所以である」 「三条公は立派な玉を見るような人物で、是は勿論別格だ」。 「公は学問なされて、歌は中々善く詠まれた。殊に筆跡頗る見事なもので、雲煙飛動の妙を備えて居られた。是は種々の書風を習われて、終に一家成されのである渋沢栄一三条公は智力秀でて居られたけれども、略のなかった人」とし、性質温厚寛大であったが、後年には「聊か決断力に欠くる憾みがないでもなかった」と評している。 また渋沢は「仁の人」であった評している。一方で「至つて円満で、見た所如何にも優しさうに想へたものであるが、それで決して仁一方といふ丈けの人では無く外面の柔かなるにも似ず内面には却々硬骨なところのあつた方である。」 また政策には通じておらず、無定見であった指摘している。「こう申すのは、はばかり多いことであるが、三条はまった無定見であらせられた。今日ある者から意見申し上げると、その日はその気になっていられるが、明日になってまたほかの者から意見申し上げると、やはりまたその気にならせられる。いつもご自分ご意見フワフワして、どっちにでもなるという具合の方であったのである。とくに経済上の問題となると、この無定見が一層はなはだしかったように私には思われのである三条公はもともと位の高い公家のご出身であらせられたから、経済のことなどに精通していられるはずもなく、したがって財政上の知識乏しくこのように無定見に陥られたものでもあろう。それにしても太政大臣をしていられた頃、太政官参議から、『かくかく事業のために経費支出するように』との依頼をお受けになれば、それだけ支出をする財源果たしてあるか否かをきちんと調査もせられずに、これに承諾与えられてしまったものである。しかしそれが大蔵省方に回ってきてから、私たちが、『とてもそんな事業のために支出するだけの財源がないから』といって跳ねつけてしまえば、『なるほどそれももっともだ』という気になり、少しも確固たる定見があって決済与えられたのではなかったのである。したがって三条公は太政大臣の職に在らせられるあいだ、常に太政官参議側と各省当局者との間にはさまって、非常に困られていたものらしい」。留守政府の頃、大蔵大輔であった井上馨渋沢政府支出問題参議対立した際、三条渋沢屋敷三度訪れて「(井上を)余り騒がせぬやうにしてくれ」と依頼したという。

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同時代人物の評価

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/11 08:53 UTC 版)

山縣有朋」の記事における「同時代人物の評価」の解説

勝海舟 「あれは正直一方の男サ」 尾崎行雄山県面倒見良く一度世話したものは死ぬまで面倒を見る結果山県には私党ができる。一方伊藤そのようなはしない信奉者増えるだけで是が非でも伊藤為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」 「方今第一流政治家屈指の人物なるべし然れども器局広大ならず、智慮深遠ならず、豪勇充足せざるがため、折角の親切もまま良果を得ずして、悪果生ずるとあり。これ痛嘆大惜すべきなり」 「(伊藤博文大隈重信山縣三人評してその人物を素裸にした値打ちから云ったならば山縣公が一番優れてゐたと私には感じられた」 「恐ろしく注意深い人で始終ものを二重にも三重にも考えたので山縣公は一生通じてあまり大した失策がなく、公自身もそれを誇りとしていたようである」 「典型的な軍人で、必要と思われる以上に軍人面目』を重んじた三浦梧楼山縣世間から極めて謹直の人のように見られておるが、実は謀の人で、誠意足らぬ所がある。これがアレ欠点だよ」 「用心深い堅固なという事には、何人も異論なかろう。その用心深い所に堅き根底築かれている。伊藤井上の及ばなかったのもここに存するであろう伊藤痴遊実践の上で、後世に伝わるほどの事はしておらぬが、それでも元帥になって陸軍首脳であったのは、実に不思議というべきである。しかしながら謹厳寡黙すこぶる重厚人柄で、どことなく押手利いたであった子分永い間に沢山養って陸軍のほうにも、また政治のほうにもすこぶる多くいて、その勢力は実に驚くべきものがあった。至誠という事において、他の政治家や軍将に異なり極めて真面目に国家想うていた事だけは充分に認められるどうでもよいというて事に当るというような事はとてもできない人で、何の仕事について一生懸命であったのは感服値する昭和天皇は、終戦直後昭和20年1945年9月に、疎開中の皇太子・明仁親王宛てた手紙の中で、「明治天皇時には山県大山山本等の如き陸海軍名将があったが、今度時にはあたかも第1次世界大戦独国如く軍人跋扈して大局考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍名将として大山巌山本権兵衛とともに山縣をあげている。

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