同時代人物の評価
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伊藤博文「公の資性は寛仁大度にして誠によく衆を容るるの量があった。しかして外は温厚の君子であったが、内はまた自ら大義を守って、いやしくも屈すべからざるの節を持って居られた御方である。その平素の行状は方正にして謹直、少しも人と争議するようのことはなかった。蓋し完璧無瑾の人であった。長州琉寓の当時、毛利家は非常に公の一行を優遇したので、幕府から嘩ましく云われたことがある。七卿の中でも公は第一位の席を占めて居られた御方である」 「その徳望はもとより世人の知る所であって、公が在世中は朝野共に重望を寄せ、公に向っては一回も悪しき批評をするものはなかった。ソコが條公の條公たる所以である」 「三条公は立派な玉を見るような人物で、是は勿論別格だ」。 「公は学問もなされて、歌は中々善く詠まれた。殊に筆跡は頗る見事なもので、雲煙飛動の妙を備えて居られた。是は種々の書風を習われて、終に一家を成されたのである」 渋沢栄一「三条公は智力に秀でて居られたけれども、略のなかった人」とし、性質は温厚で寛大であったが、後年には「聊か決断力に欠くる憾みがないでもなかった」と評している。 また渋沢は「仁の人」であったと評している。一方で「至つて円満で、見た所如何にも優しさうに想へたものであるが、それで決して仁一方といふ丈けの人では無く、外面の柔かなるにも似ず内面には却々硬骨なところのあつた方である。」 また政策には通じておらず、無定見であったと指摘している。「こう申すのは、はばかり多いことであるが、三条公はまったく無定見であらせられた。今日ある者から意見を申し上げると、その日はその気になっていられるが、明日になってまたほかの者から意見を申し上げると、やはりまたその気にならせられる。いつもご自分のご意見はフワフワして、どっちにでもなるという具合の方であったのである。とくに経済上の問題となると、この無定見が一層はなはだしかったように私には思われたのである。三条公はもともと位の高い公家のご出身であらせられたから、経済のことなどに精通していられるはずもなく、したがって財政上の知識も乏しく、このように無定見に陥られたものでもあろう。それにしても太政大臣をしていられた頃、太政官の参議から、『かくかくの事業のために経費を支出するように』との依頼をお受けになれば、それだけの支出をする財源が果たしてあるか否かをきちんと調査もせられずに、これに承諾を与えられてしまったものである。しかしそれが大蔵省の方に回ってきてから、私たちが、『とてもそんな事業のために支出するだけの財源がないから』といって跳ねつけてしまえば、『なるほどそれももっともだ』という気になり、少しも確固たる定見があって決済を与えられたのではなかったのである。したがって三条公は太政大臣の職に在らせられるあいだ、常に太政官の参議側と各省の当局者との間にはさまって、非常に困られていたものらしい」。留守政府の頃、大蔵大輔であった井上馨と渋沢が政府支出の問題で参議と対立した際、三条は渋沢の屋敷を三度訪れて「(井上を)余り騒がせぬやうにしてくれ」と依頼したという。
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同時代人物の評価
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勝海舟 「あれは正直一方の男サ」 尾崎行雄「山県は面倒見が良く、一度世話したものは死ぬまで面倒を見る。結果、山県には私党ができる。一方、伊藤はそのような事はしない。信奉者が増えるだけで是が非でも伊藤の為に働こうとする者はいなかった。しかし伊藤はそれを持って自己の誇りとしていた」 「方今第一流政治家中屈指の人物なるべし。然れども器局広大ならず、智慮深遠ならず、豪勇充足せざるがため、折角の親切もまま良果を得ずして、悪果を生ずるとあり。これ痛嘆大惜すべきなり」 「(伊藤博文、大隈重信、山縣の三人を評して)その人物を素裸にした値打ちから云ったならば山縣公が一番優れてゐたと私には感じられた」 「恐ろしく注意深い人で始終ものを二重にも三重にも考えたので山縣公は一生を通じてあまり大した失策がなく、公自身もそれを誇りとしていたようである」 「典型的な軍人で、必要と思われる以上に『軍人の面目』を重んじた」 三浦梧楼「山縣は世間から極めて謹直の人のように見られておるが、実は謀の人で、誠意の足らぬ所がある。これがアレの欠点だよ」 「用心深い、堅固な人という事には、何人も異論はなかろう。その用心深い所に堅き根底が築かれている。伊藤や井上の及ばなかったのもここに存するであろう」 伊藤痴遊 「実践の上で、後世に伝わるほどの事はしておらぬが、それでも元帥になって、陸軍の首脳であったのは、実に不思議というべきである。しかしながら、謹厳寡黙、すこぶる重厚の人柄で、どことなく押手の利いた人であった。子分も永い間に沢山養って、陸軍のほうにも、また政治のほうにもすこぶる多くいて、その勢力は実に驚くべきものがあった。至誠という事において、他の政治家や軍将に異なり、極めて真面目に国家を想うていた事だけは充分に認められる。どうでもよいというて事に当るというような事はとてもできない人で、何の仕事についても一生懸命であったのは感服に値する」 昭和天皇は、終戦直後の昭和20年(1945年)9月に、疎開中の皇太子・明仁親王へ宛てた手紙の中で、「明治天皇の時には、山県、大山、山本等の如き陸海軍の名将があったが、今度の時には、あたかも第1次世界大戦の独国の如く、軍人が跋扈して大局を考えず、進むを知って、退くことを知らなかったからです」と、陸海軍の名将として大山巌・山本権兵衛とともに山縣をあげている。
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