同時代人との交流
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/28 04:50 UTC 版)
「フェリックス・メンデルスゾーン」の記事における「同時代人との交流」の解説
メンデルスゾーンは生涯を通じて、同時代の仲間たちによる急進的音楽の発展には慎重な立場であった。時にいくらか冷淡となりつつも、普段はベルリオーズ、リスト、マイアベーアといった人物らとも友好的な関係を築いていた。しかしメンデルスゾーンは、書簡の中では彼らの作品を認められない正直な心情を吐露していた。例えば、リストに関してはこう述べている。リストの楽曲は「彼の演奏に比べると劣っており、(中略)ヴィルトゥオーゾ風にしつらえただけのものだ」また、ベルリオーズの序曲「宗教裁判官(英語版)」では「オーケストレーションが混乱の極みであり(中略)彼の楽譜を触った後には手を洗わなくてはならない」そして、マイアベーアのオペラ「悪魔のロベール」については「あさましいと思う」と述べ、登場人物のならず者ベルトラム(Bertram)を「安っぽい悪魔」と呼んでいた。友人で作曲家のフェルディナント・ヒラーが会話の中で、メンデルスゾーンがマイアベーアそっくりに見えると言ったところ、彼は大層取り乱してすぐさま飛び出していき、髪型を変えて見分けが付くようにした。しかし、実はメンデルスゾーンとマイアベーアはラビのモーゼス・イッサーリスの子孫であり、遠い従兄弟だった。 とりわけ、メンデルスゾーンはパリとパリの音楽に最も疑念を抱いており、ほとんど堅苦しいまでの距離をとっていた。彼がその地を訪れていた間に、彼にサン=シモン主義への興味を持たせようとの試みがなされたが、みっともない事態となった。 メンデルスゾーンが唯一近しい個人的交流を継続したモシェレスが、彼よりも上の世代でかつ彼同様に保守的態度を取っていたことは重要である。モシェレスは1870年にこの世を去るまで、ライプツィヒ音楽院でこうした態度を貫いた。
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