家光時代とは? わかりやすく解説

家光時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/06 21:30 UTC 版)

土井利勝」の記事における「家光時代」の解説

元和9年1623年)、秀忠将軍職家光譲った将軍交代の際には側近も変わるのが通常であるが、利勝はこの後青山忠俊酒井忠世と共に家光助け幕政辣腕振るっていく。寛永2年1625年に14万2,000石に加増された。 寛永10年1633年4月7日下総国古河162000石に加増移封される。寛永12年1635年)、武家諸法度参勤交代組み込むなど19条に増やして改訂し幕府支配体制確定した政権家光移ってほどなく徳川忠長加藤忠広改易された。家光内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲装い謀反の旨をつづった文を諸大名回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光提出したが、忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易契機になったという話がある。 なお、利勝の妹が忠長乳母であったという説もあり、乳母コネクション重視する作家永井路子は、忠長派と見なされてやむをえない立場にあった利勝と家光との間に一種暗闘妥協があったと見ており(『異議あり日本史』)、この事件後に利勝は徐々に政治実権から遠ざかったとしている。 寛永13年1636年)、それまで永楽通宝など明銭頼っていた通貨制度一新し寛永通宝鋳造とする新通制度制定した寛永通宝明治時代中頃まで流通していたという。 寛永14年1637年)頃から中風病むようになり、病気理由老中辞任申し出るが、家光より慰留されて撤回する寛永15年1638年11月7日体調気遣った家光計らいにより、実務離れて大老となり、事実上名誉職のみの立場となった寛永21年1644年6月病床臥し将軍代参見舞いを受けるなどしたが7月10日死去した享年72。跡を長男土井利隆継いだ

※この「家光時代」の解説は、「土井利勝」の解説の一部です。
「家光時代」を含む「土井利勝」の記事については、「土井利勝」の概要を参照ください。

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