家光時代
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元和9年(1623年)、秀忠は将軍職を家光に譲った。将軍交代の際には側近も変わるのが通常であるが、利勝はこの後も青山忠俊、酒井忠世と共に家光を助け、幕政に辣腕を振るっていく。寛永2年(1625年)に14万2,000石に加増された。 寛永10年(1633年)4月7日、下総国古河16万2000石に加増移封される。寛永12年(1635年)、武家諸法度に参勤交代を組み込むなど19条に増やして大改訂し、幕府の支配体制を確定した。政権が家光に移ってほどなく、徳川忠長と加藤忠広が改易された。家光と内密に謀を巡らせた利勝がわざと家光との不仲を装い、謀反の旨をつづった文を諸大名に回したところ、他の諸大名はこれを即座に家光に提出したが、忠広と忠長だけは提出しなかったことが改易の契機になったという話がある。 なお、利勝の妹が忠長の乳母であったという説もあり、乳母コネクションを重視する作家・永井路子は、忠長派と見なされてもやむをえない立場にあった利勝と家光との間に一種の暗闘と妥協があったと見ており(『異議あり日本史』)、この事件後に利勝は徐々に政治の実権から遠ざかったとしている。 寛永13年(1636年)、それまでの永楽通宝など明銭に頼っていた通貨制度を一新し、寛永通宝の鋳造を柱とする新通貨制度を制定した。寛永通宝は明治時代の中頃まで流通していたという。 寛永14年(1637年)頃から中風を病むようになり、病気を理由に老中辞任を申し出るが、家光より慰留されて撤回する。寛永15年(1638年)11月7日、体調を気遣った家光の計らいにより、実務を離れて大老となり、事実上の名誉職のみの立場となった。 寛永21年(1644年)6月に病床に臥し、将軍代参の見舞いを受けるなどしたが、7月10日に死去した。享年72。跡を長男の土井利隆が継いだ。
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