皇甫規(104年—174年)
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「涼州三明」の記事における「皇甫規(104年—174年)」の解説
字は威明。安定朝那の出身。141年、西羌が反乱を起こすと、征西将軍馬賢はこれを迎え撃つも敗北を喫した。これより以前、皇甫規は馬賢の敗北を予期しており、果たしてその通りとなったので、功曹に任じられて西羌の討伐を命じられた。彼は800の兵を率いて出撃すると、西羌を撃破して反乱を鎮圧した。その後、梁冀の専横を批判した事により左遷され、故郷に隠遁するも度々命を狙われるようになった。159年に梁冀が誅殺されると再び仕官を許され、泰山太守に任じられて瞬く間に賊を討伐した。161年、羌族が関中を荒らすと、中郎将に任じられて鎮圧に赴き、800の首級を挙げて10万人余りを降伏させた。翌年には隴西に向かい、残った羌族を尽く降伏させた。涼州の官吏は汚職に塗れており、また羌族を弾圧したりする者が多かったが、皇甫規は彼らを尽く罷免または処断したので、羌族の人心を得た。その一方で部下に対しては甘さを見せず、たとえ親しい者であっても落ち度があれば中央に報告した。だが、宦官と関係を持つのを嫌ったので、讒言を受けて中央へ召喚されてしまい、後に投獄された。多くの朝臣がこれを不服としたので、やがて皇甫規は許され、度遼将軍に任じられた。彼は老齢を理由に引退を請うたが許されず、党錮の禁が始まってもその対象から外された。その後、数年に渡り北境を統治すると、その威信は響き渡ったという。167年、尚書に昇ると、腐敗政治を批判した事で朝臣の不興を買った。だが、桓帝はこれを罪に問わず、護羌校尉に任じた。174年、洛陽に召喚されたが、帰還する途上で没した。その生涯で27篇にも及ぶ文章を書き残したという。
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