皇甫規とは? わかりやすく解説

皇甫規(104年—174年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/26 08:13 UTC 版)

涼州三明」の記事における「皇甫規(104年174年)」の解説

字は威明。安定朝那出身141年西羌反乱を起こすと、征西将軍馬賢はこれを迎え撃つ敗北喫した。これより以前、皇甫規は馬賢の敗北予期しており、果たしその通りとなったので、功曹に任じられ西羌討伐命じられた。彼は800の兵を率いて出撃すると、西羌撃破し反乱鎮圧したその後梁冀専横批判した事により左遷され故郷隠遁するも度々命を狙われるようになった159年梁冀誅殺されると再び仕官許され泰山太守任じられ瞬く間に賊を討伐した。161年羌族関中荒らすと、中郎将任じられ鎮圧に赴き、800首級挙げて10万余り降伏させた。翌年には隴西向かい残った羌族尽く降伏させた。涼州官吏汚職塗れており、また羌族弾圧したりする者が多かったが、皇甫規は彼らを尽く罷免または処断したので、羌族人心得た。その一方で部下に対して甘さ見せず、たとえ親しい者であっても落ち度があれば中央報告した。だが、宦官と関係を持つのを嫌ったので、讒言受けて中央召喚されてしまい、後に投獄された。多く朝臣がこれを不服としたので、やがて皇甫規は許され度遼将軍任じられた。彼は老齢理由引退請うたが許されず、党錮の禁始まってもその対象から外された。その後数年渡り北境統治すると、その威信響き渡ったという。167年尚書昇ると、腐敗政治批判した事で朝臣不興買った。だが、桓帝はこれを罪に問わず、護羌校尉任じた174年洛陽召喚されたが、帰還する途上没したその生涯27篇にも及ぶ文章書き残したという。

※この「皇甫規(104年—174年)」の解説は、「涼州三明」の解説の一部です。
「皇甫規(104年—174年)」を含む「涼州三明」の記事については、「涼州三明」の概要を参照ください。

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