篠原保智とは? わかりやすく解説

篠原保智

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:56 UTC 版)

篠原 保智(しのはら ほち、文禄4年(1595年)9月 - 慶長19年6月24日1614年7月30日))は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての女性。前田利家の九女で、篠原主膳一由(篠原貞秀)の正室。保智姫、模知姫、おほち。清妙院殿華萼貞香大禅尼(清妙院殿華萼貞香大姉)。菩提寺曹洞宗・桃雲寺。墓所は、金沢市野田山墓地高野山奥の院(前田利長墓所内篠原家墓地)。

芳春院(前田利家正室、まつ)の生家・篠原家に嫁ぐ。

生涯

母は、芳春院の侍女で後に前田利家の側室となった岩(隆興院)。生を受ける前に夭折した羽柴秀吉の養女・菊姫(利家の六女)は姉にあたる。徳川家康の第五子・松平信吉と婚約したが、嫁ぐ前に信吉が死去したため、人持組頭・篠原別家、初代当主で加賀藩家老・執政の篠原出羽守一孝の嫡男・篠原一由に嫁ぐ。その際、藩主・前田利常から化粧料、1500石を与えられている。

篠原一孝(豊臣一孝、17000石。栄錦院殿卿󠄁岩道本大居士)も前田利家の養女(利家の実弟・佐脇良之の娘)を正室(円智院)として迎え、利家の遺言により継室となった青山吉次(佐渡守)の娘・松齢院も、母は利家の妹の子で前田利長の養女となった長寿院である。また、篠原本家を継いだ一孝の義弟・篠原長次は、利家の性格を最も受け継いだ前田利家の実子である。

篠原一由と保智の間には男子・岩松が生まれるが、14歳で夭逝している。岩松に関しては、江戸で人質生活を送る芳春院の消息(手紙)に表れている。一通は、千世(春香院)宛のもので、「保智の岩松出産を祝い、篠原家への祝儀の品を事細かに指示したもの」であり、今一通は、ほう(前田利政の長男・前田直之)のうば(乳母)宛で、「幼い孫の直之の病質を毒でも食べさせられているのではないかと案じ、引合いに岩松の息災を安堵し、保智の体調を懸念したもの」である(実際は、岩松が早世し、直之は前田土佐守家当主として長生した)。保智は、禁教令下、キリスト教に傾倒していくが、慶長19年(1614年)6月24日、20歳で死去。夫の篠原一由(篠原貞秀)も有力家臣間の争いの渦中、配流(詳細不明)・早世した。保智の葬儀は、桃雲寺で執り行われ、位牌も桃雲寺に据えられた(明治2年(1869年)の桃雲寺の火災で篠原氏一族の位牌と共に焼失)。

保智(清妙院)の墓所

保智の墓所は、金沢市・野田山高野山に存在する。野田山墓地にある清妙院(保智)の墓は、篠原家の墓地とは別に前田家墓地内にあり、貴重な「石龕」という石造りの霊屋である。また、高野山奥の院、前田利長の五輪塔(三番碑)の背後には6基の小五輪塔が存在するが、いずれも「芳春院様内」とされた篠原氏一族のものであり、そのうちの2基が、清妙院(保智)と夫・篠原一由(篠原貞秀)のものである。

保智(清妙院)の法要

藩主(前田宗家)から嫁いできた清妙院(保智)の法要は、代々、大切に行われた。篠原別家・10代当主、篠原一進(頼母)が「文化10年(1813年)6月24日、野田桃雲寺において清妙院様二百回御忌御茶湯を執行」(藩主・前田斉広から香典・白銀三枚を授かる)と記録され、篠原別家・12代当主、篠原一貞(勘六)が「文久3年(1863年)6月24日は清妙院様二百五十回御忌に相当するが、魚津詰を命じられたので、くり上げて同年1月24日に野田桃雲寺において御茶湯を執行」(藩主・前田斉泰から香典・白銀二枚を授かる)と記録されている。野田山、清妙院(保智)の墓所には「文久三癸亥年」(篠原勘六一貞銘)の一双の献灯が存在する。

参考文献

  • 「前田家譜」『加賀藩史料』(第1編) 石黒文吉、1929年-1942年。
  • 「壬子集録」『加賀藩史料』(第2編)石黒文吉、1929年-1942年。
  • 『石川県史』(第2編)石川県編、1938年-1939年。
  • 『加能郷土辞彙』(改訂増補・復刻版)日置謙、北國新聞社、1973年。
  • 「加賀藩-諸氏系譜」(巻之十九)、金沢市立玉川図書館近世史料館。
  • 『芳春院没後400年記念 増補改訂 図録 芳春院まつの書状』前田土佐守家資料館、2017年。
  • 『篠原出羽守家代々記』篠原一宏・篠原美和子、2007年。
  • 「加賀藩篠原家の祖 篠原弥助長重の『謎』」篠原雅樹、石川県人会広報(連載シリーズ-36号、37号、39号)2011年-2012年。

篠原保智(保智姫 1595年-1614年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/14 05:44 UTC 版)

篠原一貞」の記事における「篠原保智(保智姫 1595年-1614年)」の解説

清妙院殿香大姉。前田利家の九女。母は、芳春院侍女で利家の側室となった岩(隆興院)。家臣筆頭篠原一孝豊臣一孝、17000石)の嫡男主膳一由(篠原貞秀)に嫁ぐ二人の間には「岩松」が生まれる。禁教令下、熱心なキリスト教信者であったが、1614年死去金沢市野田山墓地にある清妙院の墓(前田家墓地内にある「石龕」という石造り霊屋)に文久癸亥年(1863年)「篠原勘六一貞」の銘の二基の献灯存在する。なお、高野山奥の院前田利長五輪塔(「三番碑」)背後存在する芳春院様内」と記された6基の五輪塔篠原氏一族のもの)のうち2基が主膳一由(篠原貞秀)と夫人(保智)のものである

※この「篠原保智(保智姫 1595年-1614年)」の解説は、「篠原一貞」の解説の一部です。
「篠原保智(保智姫 1595年-1614年)」を含む「篠原一貞」の記事については、「篠原一貞」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「篠原保智」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「篠原保智」の関連用語

篠原保智のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



篠原保智のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの篠原保智 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの篠原一貞 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS