前田利常と押野後藤家
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/08/08 10:06 UTC 版)
加賀の守護職であった冨樫氏の最後の当主冨樫泰俊一家は、1570年の一揆によって野々市の館を追われ、福井県金津(旧坂井郡金津町)の溝江氏の館に身を寄せた。しかし、溝江館も1574年に2万余の一揆に襲われ、冨樫泰俊一家は溝江氏と共に自害して果ててしまった。冨樫泰俊の三男弥右衛門家俊9歳が、家臣とともに溝江館を脱出し、冨樫の郷である石川郡押野村へ落ち延び、名を冨樫から後藤に変えたのが押野後藤家の興りである。押野後藤家初代の弥右衛門富樫家俊は佐久間盛政に従軍し、一向衆最後の砦となった鳥越城(石川県白山市)攻めなどで戦功を挙げて300石を授かった。佐久間盛政の一軍は、北陸の一揆勢攻めでは前田利家と共に戦っており、身分は違うものの戦国期の後藤家は武士として前田家と同じ側に身を置いていた。後藤家2代藤右衛門は、大坂城真田丸攻めを行った3代藩主前田利常の2度の大坂の陣(1614年、1615年)に従軍し、その功績に対して十村肝煎りに任ぜられた。前田利常は隠居先の小松城へ、有能な十村を何度か招集して農政改革を諮問しているが、そこに2代後藤藤右衛門と、後に十村になった3代後藤太兵衛が招集されている。 他方、押野後藤家には、初代の後藤弥右衛門とその家臣の一行が、福井県の一向一揆から逃れて押野村へ落ち延び、農民である村人にかくまわれたという過去があり、押野村に住んだ当初は初代後藤弥右衛門も2代後藤藤右衛門も農業に従事している。十村の身分は士分でなく農民であるが、百姓生え抜きの十村と違って前田家に対する戦時の功績があり、かつ農業経験があることから、農民の思いを知る十村として押野後藤家代々の十村は歴代藩主から格別の信任と処遇を受けたものと考えられる。3代後藤太兵衛に至っては、参勤交代時の前田利常一行に、街道筋の農業事情説明役を兼ねて金沢・越後間の往路と復路に随行しているほどである。 長坂用水開発は、野田山山麓農業の管理責任者として、自身が開拓した泉野村をはじめとする村々の水利の悪さを嘆いた後藤太兵衛が、藩へ願い出たことが契機となって着手したものである。前田利常(1658年《万治元年10月没、享年64歳》)は長坂用水を見ることなく没し、5代前田綱紀が江戸から金沢へ下向した(1661年《18歳》)後に用水が完成したことから、長坂用水開発は5代前田綱紀の功績だとする文献がある。しかし、綱紀の幼少期を利常が後見していたことや、辰巳用水を開発し、死の直前まで十村達と「改作法」を画策するなど、40年余にわたって揺籃期の加賀藩農政を思い遣った3代藩主前田利常の業績が、長坂用水開発に対しても大きく影響している。後藤太兵衛は、用水完成前年の1670年(寛文10年)に野田山へ鷹狩りに出た5代藩主綱紀から、工事の進捗に対する恩賞として陣笠と革製陣羽織を拝領し、翌年の完成時には、同じく綱紀から800石の扶持増を受けており、太兵衛の功績がいかに大きかったかが窺える。なお、押野後藤家は、泉野村、泉野新村、泉野出村、長坂新村の他に、5代後藤安兵衛の時代に中村(現 金沢市中村町)から高畠村(〃金沢市高畠町)にかけての犀川左岸沿いを独力で開発している。
※この「前田利常と押野後藤家」の解説は、「長坂用水」の解説の一部です。
「前田利常と押野後藤家」を含む「長坂用水」の記事については、「長坂用水」の概要を参照ください。
- 前田利常と押野後藤家のページへのリンク