押野後藤家の興りとは? わかりやすく解説

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押野後藤家の興り

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/15 01:45 UTC 版)

押野後藤家」の記事における「押野後藤家の興り」の解説

金津城を脱出した富樫家俊一行は、加賀国目指し50km余の距離を北上し加賀国押野村清水付近に清水姓が多く農業用水清水川が今も残る)を、縁を頼って落ち延び先とし、後藤弥右衛門と名を変えて密かに郷士として住み着いたのが押野後藤家の興りである。以後押野後藤家代々当主昭和期まで400年余にわたって押野村居住し当初戦国武将として、江戸期には十村として、明治期以降村長として地域発展大きく貢献した家紋は、妙見信仰象徴である北斗七星亀甲中に配した泰高流定紋亀甲七曜である。冨樫氏は、遠祖藤原利仁キツネ係る奇怪説話があることからも、稲荷信仰に篤かった。押野後藤家にも、以下のことから稲荷信仰篤さ窺われる後藤家家屋明治期建築)は老朽化のため平成16年2004年)に取り壊されたが、それまで邸内には「冨樫稲荷大明神」の扁額掲げた朱塗り間口3尺8寸の祠があったことが知られている。後藤家から南東へ約300m離れた箇所に、一揆焼き討ちにあった地頭冨樫家善の館跡(現野々市市立館野小学校の地、押野館と呼ばれた館の土塁19世紀半ばまで残っていた)があり、そこにホンドギツネ住み着き代々後藤家夫人毎朝油揚げ持参してキツネ巣穴供えるのを常としたと伝えられる。この廃墟跡は稲荷山呼ばれ、そこに鎮座する稲荷の神を後藤家邸内設けた前述の祠へ遷祀し、後藤家毎月15日油揚げ赤飯供えて崇めたことも町民に伝わる。後藤家は、江戸期仇敵ともいえる浄土真宗改宗手次寺八日市瑞泉寺現金瑞泉寺)しているが、一貫して稲荷信仰を絶やさなかったことは冨樫氏後裔であることの証左一つとして注目される後藤家残された集文書は、一紙文書、帳冊類、袋入り絵図などを総計する1800点余になり、時代考証進め上で貴重な資料となっている。中でも最古文書は、建武元年1334年)の後醍醐天皇綸旨であり、約700年わたって代々冨樫氏押野後藤家幾多戦火くぐって蔵したのである押野後藤家冨樫氏後裔であり、代々十村として偉業をなしたこと、中でも加賀藩一大事業である長坂用水開発指揮した3代太兵衛功績際立って大きかったことから、近在住民は、現在でも畏敬尊崇の念を込めて「ゴトウサン」と敬称付き呼んでいる。同家押野存在したのは昭和期12後藤義賢までであり、その後家督代々医院開業している金沢市後藤家継承している。江戸中期には歴代藩主鷹狩のたびに後藤家休憩するようになり、その都度家屋普請行っている。また、9代安兵衛は組持十村中でも最高位扶持持ちとして52支配するまでになっていることから、後藤家屋敷広大だったことが想像される。しかし、敷地明治期以降高皇産霊神社保育所集会所民家用水などに漸次供用され、今は445坪の更地に建つ1棟の岩蔵だけがわずかに往時偲ばせる

※この「押野後藤家の興り」の解説は、「押野後藤家」の解説の一部です。
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