押野後藤家の興り
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金津城を脱出した富樫家俊ら一行は、加賀国を目指して50km余の距離を北上し、加賀国押野村字清水(付近に清水姓が多く、農業用水清水川が今も残る)を、縁を頼って落ち延び先とし、後藤弥右衛門と名を変えて密かに郷士として住み着いたのが押野後藤家の興りである。以後、押野後藤家代々の当主は昭和期まで400年余にわたって押野村に居住し、当初は戦国武将として、江戸期には十村として、明治期以降は村長として地域発展に大きく貢献した。家紋は、妙見信仰の象徴である北斗七星を亀甲の中に配した泰高流定紋の亀甲七曜である。冨樫氏は、遠祖藤原利仁にキツネに係る奇怪説話があることからも、稲荷信仰に篤かった。押野後藤家にも、以下のことから稲荷信仰の篤さが窺われる。後藤家家屋(明治期建築)は老朽化のため平成16年(2004年)に取り壊されたが、それまで邸内には「冨樫稲荷大明神」の扁額を掲げた朱塗りの間口3尺8寸の祠があったことが知られている。後藤家から南東へ約300m離れた箇所に、一揆で焼き討ちにあった地頭冨樫家善の館跡(現野々市市立館野小学校の地、押野館と呼ばれた館の土塁が19世紀半ばまで残っていた)があり、そこにホンドギツネが住み着き、代々の後藤家夫人は毎朝油揚げを持参してキツネの巣穴に供えるのを常としたと伝えられる。この廃墟跡は稲荷山と呼ばれ、そこに鎮座する稲荷の神を後藤家邸内に設けた前述の祠へ遷祀し、後藤家が毎月15日に油揚げと赤飯を供えて崇めたことも町民に伝わる。後藤家は、江戸期に仇敵ともいえる浄土真宗に改宗(手次寺:八日市村瑞泉寺、現金沢瑞泉寺)しているが、一貫して稲荷信仰を絶やさなかったことは冨樫氏の後裔であることの証左の一つとして注目される。 後藤家に残された集蔵文書は、一紙文書、帳冊類、袋入り、絵図などを総計すると1800点余になり、時代考証を進める上での貴重な資料となっている。中でも最古の文書は、建武元年(1334年)の後醍醐天皇綸旨であり、約700年にわたって代々の冨樫氏と押野後藤家が幾多の戦火をくぐって伝蔵したものである。押野後藤家が冨樫氏の後裔であり、代々が十村として偉業をなしたこと、中でも加賀藩の一大事業である長坂用水開発を指揮した3代太兵衛の功績が際立って大きかったことから、近在の住民は、現在でも畏敬と尊崇の念を込めて「ゴトウサン」と敬称付きで呼んでいる。同家が押野に存在したのは昭和期の12代後藤義賢までであり、その後の家督は代々医院を開業している金沢市の後藤家が継承している。江戸中期には歴代の藩主が鷹狩のたびに後藤家で休憩するようになり、その都度家屋の普請を行っている。また、9代安兵衛は組持十村の中でも最高位の扶持持ちとして52村を支配するまでになっていることから、後藤家の屋敷は広大だったことが想像される。しかし、敷地は明治期以降、高皇産霊神社、保育所、集会所、民家、用水などに漸次供用され、今は445坪の更地に建つ1棟の岩蔵だけがわずかに往時を偲ばせる。
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