前田利為大将の陣没を巡る紛議
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 14:49 UTC 版)
「東條英機」の記事における「前田利為大将の陣没を巡る紛議」の解説
旧加賀藩主前田侯爵家当主で、東條とは陸士17期の同期生であった前田利為(陸大23期恩賜。東條より4年早く陸大入校を果たした)は東條と犬猿の仲であった。前田は東條を「頭が悪く、先の見えない男」と侮蔑し、逆に東條は前田を「世間知らずのお殿様」と揶揄していたという。 前田は、陸軍中将に進級して第8師団長を務めた後、1939年(昭和14年)1月に予備役に編入された。 1942年(昭和17年)4月に召集されてボルネオ守備軍司令官に親補された前田は、クチンからラプラン島へ移動途中、飛行機ごと消息を絶ち、10月18日になって遭難した飛行機が発見され、海中から前田の遺品と遺体が見つかった。搭乗機の墜落原因は不明であり、10月29日の朝日新聞は「陣歿」と報じているが、前田家への内報では戦死となっており、11月7日クチンで行われたボルネオ守備軍葬でも南方軍総司令官・寺内寿一による弔辞では戦死となっていた。しかし、11月20日、築地本願寺における陸軍葬の後で、東條はボルネオ守備軍参謀長・馬奈木敬信に対して「今回は戦死と認定することはできない」と告げ、東條の命を受けた富永恭次によって「戦死」ではなく「戦地に於ける公務死」とされた。 これにより前田家には相続税に向けた全財産の登録が要求された。当時、当主戦死なら相続税免除の特例があり、東條が戦費欲しさに戦死扱いにしなかったと噂する者もいた。このことは帝国議会でも取り上げられ紛糾したが、最終的に「戦地ニ於ケル公務死ハ戦死ナリ」となり、前田家は相続税を逃れた。なお、前田の葬儀では東條が自ら弔辞を読んだが、陸士からの長い付き合いに触れた、生前の反目が嘘のような哀切な文章を読み上げ、しかも途中で号泣したという。
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