前田利為による財団設立
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「前田育徳会」の記事における「前田利為による財団設立」の解説
近代に入り、前田藩伝来品を公有化して永久保存しようとしたのは、16代当主で侯爵の前田利為(まえだとしなり、1885 - 1942)であった。前田家の分家から本家に養子として入った利為は、養父の急死により、明治33年(1900年)、数え年16の時に家督を継いだ。彼自身は外交官になることを希望していたが、「前田家の当主は軍人となるべきだ」という周囲の意見を容れ、陸軍大学校を経て軍人となった。利為は昭和17年(1942年)4月にボルネオ守備軍司令官となるが、同年9月5日、ボルネオ島(カリマンタン島)沖で飛行機ごと消息を絶った。 旧大名家・公家等に伝来した文化財は、第二次世界大戦後の混乱期に散逸したものが多いが、加賀前田家所蔵品は尾張徳川家所蔵品とともに早くから公益法人化されていたため、散逸をまぬがれた。前田利為が公益法人の設立を決意したのは、大正12年(1923年)、関東大震災の被害を目の当たりにしたことがきっかけであった。震災当時、前田侯爵家の屋敷は東京市本郷区(現・東京都文京区本郷)の東京帝国大学(現・東京大学)キャンパスに隣接して建っていた。関東大震災の時、前田家の屋敷は難を逃れたが、先祖伝来の家宝を収蔵した土蔵は危うく焼失するところであった。利為は加賀藩主家伝来の文化遺産の保全のため、大正15年(1926年)に公益法人育徳財団を設立した。法人は後に「侯爵前田家育徳財団」、さらに「前田育徳会」と名称を変えている。「育徳」の名は、前田家上屋敷にあった庭園「育徳園」に由来する(前田家上屋敷の旧敷地は東京大学本郷キャンパスとなっている)。 育徳財団設立の数年後、東京帝国大学のキャンパス拡充計画に伴い、前田家と大学との間で土地の交換が行われた。すなわち、前田家は本郷を引き払う代わりに、現在の東京都目黒区駒場の東京帝国大学農学部の用地を取得し、ここに邸宅を建てた。現在の目黒区立駒場公園がその跡地で、公園内には昭和4年(1929年)竣工の旧前田侯爵邸洋館と同5年(1930年)竣工の和館が現存し、一般公開されている。前田育徳会の本部(尊経閣文庫)はこの駒場公園に隣接している。尊経閣文庫の建物は、前田邸洋館の設計者でもある宮内省内匠寮(たくみりょう)の高橋貞太郎の設計になる鉄筋コンクリート造で、昭和3年(1928年)の竣工。図書閲覧所(事務所)、書庫、貴重庫、門及び塀は国の重要文化財に指定されている。
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